社宅見学会
0 はじめに
Contents |
1-16 小浜社宅 |
新港 天領 七浦 上官 緑ヶ丘 万田(その他 …) |
3 三井金属鉱業鰍フ社宅 |
4 デンカ鰍フ社宅 |
かつて、社宅は大牟田、荒尾地区で最もポピュラーな住宅であった。
明治24年、炭鉱が官営から三井経営に変わり、多くの労働者により採炭が行われることとなる。古くは、採炭を請け負った組が住宅をはじめとする生活必需品を手当する納屋制度、囚人労働者の場合は三池集治監が居住の場であったが、石炭の増産とともに一般の労働者(囚人に対し「良民坑夫」と呼ばれた。)も増え、労働者用の住宅が必要となった。
初期の炭鉱住宅は、通勤手段が未発達であったため、鉱業所の敷地内、または隣接地に建てられていた。しかし、軍需を背景とした昭和初期の鉱工業の増産期には坑口や工場付近に社宅用地を確保することができなくなり、一定の距離がある場所(徒歩通勤圏内)で社宅建設が行われるようになる。戦後になると、炭鉱電車やバスが労働者の輸送に使われはじめ、坑口から離れた荒尾市にも大規模な社宅が開発された。
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エネルギー政策の転換により、重厚長大型産業の合理化が始まると、大牟田でも人口の流出が始まり、社宅の空き家が増えていった。さらに、住宅ストックの増加とともに、借上社宅や住宅手当などの制度が広がり、企業が自己で社宅を所有するという形態も少なくなってきた。
昭和40年代以降、不要になった社宅は漸次解体され、今では大牟田、荒尾の風景であった木造社宅群は見ることができなくなった。筆者は東洋高圧の社宅ではあったが、社宅育ちであり心情的には寂しいが、それもこのまちの長い歴史の中で、わずか1世紀余りの間の風景。これからどのように変わっていくかも楽しみである。
さて、社宅に関する研究は、先人がまとめたものがあるので、当研究室では詳細を追い求めることはしない。これまで小生が見聞してきて、知っていることを記載するとともに、わずかではあるが画像を掲載し、今では見ることができなくなった社宅のウエッブ見学会とする。
興味を持った人の研究の入口にでもなれば幸いである。
【おことわり】
平成の初め頃、会社の人に社宅を見学させてくれるようお願いした。「人が自由に行き来しているので見るのは構わない。しかし、見知らぬ人がカメラやノートなどを持ってうろつくと、入居者から会社は自分たちを追い出しにかかっていると思われています。そうならないように気を付けてほしい。」と条件付きの承諾を得た。人が生活している建屋を写すのもプライバシー保護の問題もあるので空き家を中心に撮影した。
以上の理由により、今回の画像は解体間際の空き家が多い。世間では、社宅は地区の住環境悪化の元凶のように思われているが、空き家となって放置されているからそうなるのであって、人が住んで管理されているものはそうではない。集団生活の雰囲気も悪くはない。子どもの頃は社宅の暮らしが本当に楽しかった。
社宅に住んだ経験のある人であれば、それを理解できると思う。残念ながら当研究室では、筆者の能力不足で、それを再現できていないことをお断りしておく。ソフトを含め社宅の本当の姿を知りたい人は多くの文献、資料で学ばれることを勧める。
※掲載した空中写真は国土地理院が公開しているものを使用している。大牟田市の人口のピークは昭和34年(1959年)頃であり、それ以降の社宅の新規建設戸数は少数である。したがって、特記なきものは、あまり解体が進んでいないと思われる昭和37年(1962年)の空中写真とした。
※社宅の戸数は、ゼンリン地図などを参照に上記の昭和37年の空中写真の社宅配置で筆者が独自に推計した。したがって、社宅所有企業の管理台帳の戸数とは異なる。
※一部のページで、昭和19年(1944年)10月及び11月の米軍の空撮により昭和20年に作成された地図を使用している。この地図は空襲用で精度が高く、公共の建物、社宅を含む企業の生産施設が正確に落とし込まれており、当時の様子を把握できる貴重な資料となっている。
※本文には社宅の棟番号を記載しているが、棟番号がわかる資料、画像はアップしていない。大変申し訳ないが、大牟田市立図書館所蔵の過去のゼンリン地図などで見ることができるのでご自分で確認していただきたい。
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