社宅見学会
1-10 尻永社宅
昭和23年(1948年)に堂面川沿いに整備された社宅である。上流側を上尻永社宅、下流側を下尻永社宅とされ、それぞれの社宅内で連番の棟番号を付していたが、三井石炭では両方の社宅を合わせ、尻永社宅として管理していた。(本来、尻永の地名は下尻永側であり、上尻永側は御幸返、嶋廻である。)
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尻永社宅 |
現在の高泉橋、御幸返橋周辺は昭和7〜9年頃に鉱害による田畑の陥没が発生していた。大牟田の鉱害はこの近辺から西側で起こっており、堂面川、長溝川の付け替え、改修は高泉付近から下流で行われている。
尻永社宅は、堂面川、長溝川の付け替えや県道大牟田南関線の整備で産み出された区画に建てられた。上尻永社宅は、大正15年地図を重ね合わせると、改修前の旧長溝川の直上にあることがわかる。
上尻永社宅は妻入り型3DK(当時はDKという呼ばれ方はしていなかった。)の木造2戸並びで、昭和37年(1962年)時点で19棟36戸、下尻永社宅は平入り型の木造2戸並びで、16棟28戸、合計35棟64戸であった。
5級社宅が4戸あったという記録があるが、筆者には判別できていない。(ご存知の方はご教示いただきたい。)
浴場は上尻社宅の西側に設置され、下尻永社宅と共同で使用していた。この浴場は昭和60年頃に解体された。
昭和50年代後半より、下尻永社宅の西側の一部が解体され、敷地の売却が行われた。以後の解体は小規模であり、平成5年(1993年)の時点で27棟50戸が管理されていた。上尻永社宅の2戸並び30坪(1戸は15坪)の3DKは、木造の6級従業員社宅のなかでは最も広く、2戸を1戸として使用する必要もなかったため、入居率が高かった。
下尻永社宅は平成6年(1994年)、上尻永社宅は平成8年(1996年)に全て解体された。
令和3年現在、下尻永社宅は給油所、医院、上尻永社宅は戸建住宅地となっている。
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上尻永社宅6棟(平成7年) |
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上尻永社宅6棟(平成7年) |
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上尻永社宅19棟 手前は浴場跡(平成7年) |
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上尻永社宅の平面図(小川開社宅の一部に同型あり) |
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