社宅見学会

1 三井石炭鉱業鰍フ社宅

 

冒頭に、当時の関係者(いずれも故人)から聞かせていただいた貴重なお話を紹介する。

三井鉱山の建設部で戦後の社宅建設を担当された建築技師の江頭國義さんと勝立地区を、平成2、3年頃に、一緒に歩いたときの聞かせていただいた話。「会社の社宅には1級から6級まであって、ここらはほどんどが6級でした。勝立は戦前から社宅がありましたが、戦後、空いている土地や周辺部の土地にバタバタで増築しました。他のところでも社宅を建てていましたが、とにかく忙しくて現地の測量もできませんでした。およその敷地の図面に社宅の配置を落とし込んで、あとは現場合わせでした。そんな仕事でしたから、排水が流れないことなんかしょっちゅうでした。」

三井鉱山で労務管理をされていた宮地巌さんのお話。「戦争から帰って会社に戻ったら、炭鉱に多くの人が入ってきました。社宅の建設は追いつかなかったですね。私は職員社宅でしたが、切ってきたばかりの生木で建てられていたので、時間とともに(木材の乾燥による変形で)あちこちの扉や襖や扉が閉まらなくなりました。よっぽど戦前の社宅のほうがしっかりしていましたね。でも当時の住宅事情からすると住めるだけでありがたいと思わなければなりませんでした。」

港務所に勤務されていた大橋武彦さんのお話。「炭鉱に入ると住宅が保障されると思われているかもしれませんが、最盛期はとてもそのような状態ではありませんでした。社宅に待ちが多くて、私はしばらく社宅には入れませんでした。運良く県営住宅に当選したので、社宅が開くまで県住で暮らしていました。そんな社宅も人が減ると一変しました。勤続年数や家族数によりましたが、2戸を1戸で使っている世帯もありました。昭和末期頃からは、同僚の中には幹部職員用の大邸宅に住んでいる人もいました。」

社宅がどうやって建てられたか、どのように使われていたかが窺えるエピソードである。

 

およそ大牟田・荒尾地区の社宅は昭和20年代頃までは随時建て増しされ、その後、他の土地利用をする区画の社宅や老朽化で管理ができなくなったものから解体されている。特に木造社宅ではこの傾向が著しく、頻繁に変わる管理戸数を把握することは今となっては困難である。したがって、社宅の戸数や廃止時期などについては大雑把な表現となることもあるので、ご了承いただいきたい。

 

※三井鉱山鰍ヘ昭和34年(1959年)に機械製作部門を三井三池製作所鰍ニして分離、昭和48年(1973年)に石炭生産部門(鉱業所)を三井石炭鉱業鰍ニして分離した。社宅などの財産もそれぞれの会社に継承している。

 

※三井鉱山の社宅は、三池鉱業所各坑所が管理し、それぞれの鉱員(従業員)を入居させていた。したがって、各社宅では〇〇坑の社宅という呼ばれ方もした。しかし、昭和40年代半ば以降、坑口の再編が進み、会社の分離合併が頻繁に行われるようになると〇〇坑の社宅という様相が変わっていった。例えば、港務所の社宅には、三港運送、みなと木材、サンコーモータース、三池合板など、会社分離によって関連会社の社員となった人たちが住んでいた。本文中、各坑所用の社宅とあるのは古い呼び名であり、上記大橋さんのお話にある社宅ヒエラルキーを含め、古い秩序は保てなくなっていたことを念頭に置いて見ていただきたい。

 

次のページへ

 

前のページへ

 

社宅見学会メニューへ

 

おから研究室メニューへ

 

 

SEO [PR] 爆速!無料ブログ 無料ホームページ開設 無料ライブ放送