社宅見学会

-8 七夕社宅

 

鉱害で流れなくなった堂面川、長溝川の間の農地(鉱害田)に、終戦後の昭和21年から22年にかけて、建てられた宮浦坑管理の社宅である。

白川小学校の東側と長溝社宅側に分かれていた。白川小学校側は小字が七夕であるが、長溝社宅側は小字名で瀬萩社宅、大字名で白川社宅と呼ぶ人もいた。

七夕の地名については、三池商事の七夕販売所や七夕配給所、七夕診療所、七夕幼稚園、堂面川の七夕橋は、いずれも長溝社宅側にあったので、近くに住んでいた筆者はどちらも七夕なのだなと思っていた。

 


七夕社宅(白川小学校側)


一部廃止後の七夕社宅(白川小学校側 昭和50年)


七夕社宅(長溝社宅側)

 

昭和37年時点で、白川小学校側は平家2戸並び65棟、1戸建て4戸の132戸、長溝社宅側は平家2戸並び3060戸となっている。

解体は昭和40年年代半ば頃から部分的に始まり、白川小学校側は民家周辺の社宅が解体され、浴場西側の社宅跡地は広場(小さめのグラウンド)となった。旧グラウンドは戸建住宅地として分譲された。

長溝社宅側も同時期に部分解体が始まり、昭和47年には全ての社宅が解体された。解体後は宅地開発が行われた。

余談になるが、当時、新都市計画法が施行され、ここの開発では、道路が6mの幅員で造られていた。舗装したての道路は自転車にとっては快適そのもので、筆者は幹線と隔てられた環状道路を競輪場と称し、完成したての頃、友だちと競争していた。(すぐに家が建てられてきて、「競輪場」としての使用はできなくなった。)

 

残った白川小学校側の社宅では、昭和50年代後半に浴場の敷地に巨大な太陽熱温水器が設置された。本家の石炭企業の社宅風呂も思想が変わったと感じた。

この社宅には、広場の北側に社宅と明らかに雰囲気の違った家があった。その家は民家であり社宅末期まで存在していたが、社宅が解体され宅地分譲されるときには無くなっていた。

白川小学校側の敷地南側は平成5年(1993年)に解体され、雇用促進住宅等の建設用地となった。北側は平成8年(1996年)に解体され、戸建ての宅地として分譲された。

 


白川小学校側19棟付近(平成7年)


白川小学校側20棟付近 左奥は雇用促進住宅(平成7年)


内部 4畳半に半間の床の間(平成7年)


台所のかまど、流し、水瓶は当時の三種の神器(平成7年)


共同浴場(左は男性用、右は女性用) 右側は新労の集会所(平成7年)


【余談】筆者が競輪場と呼んでいた長溝社宅側の開発道路(昭和50年)

 

【七夕幼稚園】

長溝社宅側にあった七夕幼稚園は当時の私立幼稚園の一覧にない。三池鉱業所の私的な幼稚園だったのだろうか。この幼稚園には確かに七夕社宅や長溝社宅などの鉱業所の従業員の子女が通っていた。

三池鉱業所の保育園の場合は、児童福祉法上に認可を得た保育所であったが、七夕はその中に含まれていない。七夕は「幼稚園」と言っていた。幼稚園は学校教育法による認可が必要だが、世間には認可外(無認可)の幼稚園も存在する。この幼稚園はどういう位置づけだったのか、ご存知の方はご教示いただきたい。

 


七夕幼稚園の建物は幼稚園廃止後、集会所として使われていた(平成7年)

 

 

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