社宅見学会

-12 田崎社宅

 

白川の露天掘は、昭和178月から採炭が始まり、昭和227月に中止されるまで、戦時下の石炭増産期を支えた。

露天掘と願行寺に挟まれた地区には古くからの田崎村(合併により、白川村、銀水村へとなる。)の集落があったが、露天掘の採炭により、にわかに喧騒が巻き起こる。石炭運搬のためのトロッコ軌道が敷かれ、人力で長溝川踏切付近まで運ばれた。

 


田崎社宅


工事の進捗(左:昭和224月 右:昭和236月 国土地理院空中写真)

 

田崎社宅の敷地は、北半分は旧田崎村の集落で、露天掘の採炭により移転、南側には旧堂面川があり、新堂面川への付け替えで埋められている。昭和21年(1946年)の終わり頃から建設が始まり、昭和23年までに2戸並び1530戸、1戸建て15戸、計45戸が建てられた。

採炭に携わる鉱員用の社宅としては銀水社宅が建設されたが、田崎社宅が建設されたのは、露天掘の勢いが衰えてきた頃であり、戦後の社宅需要への対応を目的としていた。社宅の等級は初級職員用の5級社宅であり戸当たり面積は約15坪、3間に縁側があり、各戸に専用浴室が設けられていた。

田崎社宅は一定の居住水準を有する社宅で利便性のよい場所でもあったため、比較的長く使われ、閉山の前年、平成8年(1996年)に解体された。

先述したとり、銀水社宅は露天掘とともに整備された社宅であるが、田崎、七夕、長溝の各社宅の整備は趣が異なり、旧大牟田市内にまとまった社宅用地を確保できなくなったことを意味する。その後、道路、水道などの基盤が整備され、大牟田の市街地は旧銀水村、三池町に拡大していくのである。

 

筆者は、この田崎社宅と七夕社宅の中の道路を通って白川小学校に通学していたので、毎日見学していたなじみのある社宅であった。筆者の感想では、田崎社宅は閑静な住宅地であった。

共同浴場、グラウンド、広場、売店などの共同施設がないので、社宅の中で人の流れが生じない。したがって賑わいは少ない。良いことなのか憂慮すべきことなのかはそれぞれの価値判断となるのであろうが、筆者が肌で感じた鉱員社宅との違いである。

 


田崎社宅18棟付近(平成7年)


田崎社宅14棟付近(平成7年)


解体前の内部(平成7年)


台所(平成7年)


浴室(平成7年)

 

 

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