社宅見学会
2−1−4 手鎌社宅
戦時中にあった東洋軽金属梶i昭和16年(1941年)12月設立、昭和18年2月工場生産開始、昭和20年8月操業中止。)の社宅である。
東洋軽金属鰍ニ三井金属鉱業鰍ニの沿革での直接的なつながりはないが、戦後は銀水工場とともに三井金属の財産(昭和25年に三井鉱山から分離したため、一時は三井鉱山の財産)となった。軽金社宅と呼ばれていた手鎌社宅は、一部を東洋高圧が管理し、使用した。
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手鎌社宅 |
戦前の建設当初は、後に東圧管理となる部分に、2階建て4戸並びが10棟40戸、2戸並びを基本とする平家が41棟77戸、合計51棟117戸があったが、戦時中に2戸並び4棟が解体された。
戦後は北側に22棟44戸と東圧分の専用共同浴場が増築され、昭和37年時点では91棟172戸となっている。
昭和40年代前半に2戸建て4棟が解体されて以後、徐々に戸数が減らされ、北側の2戸並びは社員に売却、昭和60年(1985年)、中央付近の平家2戸並びが解体され、誘致企業が立地した。
残りの南側の平家2戸並び、2階建ては平成4年(1992年)に解体され、平成7年から8年にかけて、精錬所の社宅とともに宅地開発された。
2−1−5 龍湖瀬社宅
昭和20年代中頃に整備された平家1戸建て12戸、2戸並び24棟48戸、4戸並び3棟12戸、合計39棟72戸の社宅である。
昭和40年代中頃より社員に売却され、社宅としては廃止となった。しかし、最寄りのバス停は平成になっても「龍湖瀬社宅」のままであった。
令和3年現在も妻壁に棟番号の札が付いたままの旧社宅が残っている。
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龍湖瀬社宅 |
2−1−6 米の山社宅
昭和28年(1953年)に整備された木造平家126棟173戸の社宅である。
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米の山社宅 |
この社宅には福岡県住宅協会により建てられた住宅があった。
福岡県住宅協会は福岡県住宅供給公社の前身であり、戦災後の応急住宅から恒久的住宅へと移る時期、昭和25年(1950年)に設立され、戦後の激烈な住宅需要への対応を担った。大牟田市でも賃貸住宅、分譲住宅を建設したが、企業の社宅建設も手掛けている。米の山社宅では、昭和28年(1953年)に南堂浦団地、北堂浦団地、南長浦北長浦団地と称し、1戸建ての住宅70戸を建設した。
2戸並びの社宅は昭和40年代中頃から2戸を1戸として使われた。平成元年(1989年)から翌年にかけて、老朽化の進行により、北堂浦部分の木造を解体し、鉄筋コンクリート造5階建て50戸の米の山アパートが建設される。このアパートに、社宅の入居者を集め、浴場から北西部分の社宅は全て解体された。(厳密に言えば、米の山アパートは東洋高圧の社宅ではなく、三井東圧化学の社宅として建設された。)
以後、残った木造の老朽化は一層進行し、平成9年(1997年)に全ての木造が解体された。敷地の一部は高取保育園及び米の山病院の移転用地となった。
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米の山会館(集会所)と東圧名物「ダゴ石擁壁」(次頁以降参照) (令和3年) |
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