社宅見学会

2−1−7 上官アパート

 

米の山社宅に記した福岡県住宅協会は、戦後の我が国の市街地政策である建物の不燃化も推進していた。同協会は民間事業者に先駆けて耐火構造のノウハウを持ち、昭和25年(1050年)、大牟田市で初めてとなる鉄筋コンクリート造3階建ての大正町の賃貸住宅を昭和25年に建設している。

上官アパートは同協会により東圧用に建てられた3階建ての住宅であり、昭和28年(1953年)に224戸、昭和29年に336戸が建設された。これ以降、東洋高圧は鉄筋の社宅を建設していく。

 


上官アパート(左は花園社宅)

 

上官アパート敷地の北側部分に木造社宅が47戸あったので、合計67戸の社宅ということになる。アパートだけではなかったので、本来なら上官社宅と呼ぶべきなのだろうが、社宅名は上官アパートであった。

昭和63年(1988年)頃に2戸を1戸とし、専用風呂を設置する改造が行われ、その後共同浴場は廃止された。

平成22年(2010年)頃には社宅としての役割を終え、民間不動産会社が一般向けの賃貸用のアパートとして入居者を募集していた。平成29年(2017年)に全てのアパートが解体された。西側の接道が狭いためか、令和3年の時点では、跡地活用は進んでいない。

 


5棟東側の入居者募集の看板(手前は自転車小屋 2011年)


左上:1棟 右上:4棟 左下:5棟 右下:ダゴ石擁壁(平成29年)

 

【筆者の生活史】

当時の大牟田にはあまりなかった鉄筋コンクリートの社宅であり、トイレを備えていた。白金社宅に住んでいた頃、筆者の母親は、今では幻想ではなかろうかと思うくらい、上官アパートに高級感を抱いていた。母は「あそこの奥さんたちは光モノを身に着けてお出かけをする。」などと言っていた。(真偽は不明。)

その後、我が家は上官アパートに引っ越すことになるのだが、母が光モノを着けて出かけることもなく、まして、子どもの筆者が高級感など持つはずもなかった。

社宅の遊び場は、藤棚とすべり台がある程度で狭かったが、身体が小さかったから走り回って遊んでいた。

社宅は鉄筋コンクリートではあったが、風呂は共同浴場であり、木造社宅と大差はなかった。しかし、父と行く共同風呂は楽しみだった。社宅の風呂が休みの日には、現在の駛馬マルキョウ付近にあった鶴の湯に行っていた。まちの風呂も楽しみだった。

上官の商店街も近く、社宅から東に下りれば末広町方面の商店街があった。地理的にはほんのわずかな違いではあるが、白金社宅より都会感があった。

西側から入る1棟と2棟の間の道の両側には、東圧名物(筆者の独断でそう言っているだけであるが)「ダゴ石擁壁」があった。ダゴ石擁壁は、45寸くらいの径がそろった川石を並べ、玉砂利コンクリートで抑えた法面の保護方法である。これも遊び場になり、横に階段があっても、川石に足をかけて擁壁を上っていた。米の山社宅、白川アパートにもあった。変わった趣味と思われるだろうが、このダゴ石擁壁を見るとうれしくなる。人の叡智により造形美であり、後世に残したい構造物である。

 

 

2−1−8 平原アパート

 


平原アパート

 

昭和30年(1955年)、31年の2期に分けて建設された鉄筋コンクリート造3階建て572戸の社宅である。

白川アパートから平原アパートに引っ越す家庭があったので、親に聞くと白川アパートよりさらにハイグレードという話だった。国土地理院の空中写真で比較すると、白川アパートよりも1戸当たり10%ほど広いことがわかる。当時の交通手段の主流であったバスの便も良好であった。

平成25年(2013年)、全ての棟が解体され戸建住宅地として分譲された。

 

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