社宅見学会

-15 西浜田社宅

 

西浜田社宅は、西浜田町と新地町にまたがる職員社宅である。新地町の社宅を新地町社宅と呼ぶ人もいたが、両町の社宅は通しで財番、棟番号が振られており同一社宅として管理されていた。

 


西浜田社宅

 

この地区は、明治14年(1881年)に完成した干拓地「小浜開」の一角である。本来、干拓は農地開発を目的として行われるが、小浜開は大牟田川沿いの地区から宅地化が始まり、戦前までに浜田・新地地区は密度の高い市街地となっていた。

しかし、この地区は昭和20年(1945年)の大牟田空襲で焦土と化した。焼けた新地遊郭や第四国民学校跡地に戦災復興応急簡易住宅が建てられ応急的な対応が行われる一方、昭和2110月、恒久的な取り組みである戦災復興土地区画整理事業の都市計画決定が行われた。

以後、戦災復興事業が進められることとなり、西浜田社宅は、この土地区画整理に合わせて整備された。

昭和22年(1947年)、現中友公園北側の区画の2戸並び612戸の建設が始まり、翌年、同区画の東部分の24戸をはじめとする残りの区画の2戸並び43棟、1戸建て1棟が建設された。このとき建設されたのは全て散田社宅に掲載した5級B型と同型の社宅であった。

 


中友公園北区画 手前の角とその左の社宅は昭和23年建設(平成7年)


中友公園北区画の棟番号16が付された昭和22年建設の社宅(平成7年)

 

なお、新地町の区画に昭和29年(1954年)、小浜社宅の4級社宅が戸建てとして2戸移築、昭和36年(1961年)には戸建て2戸が新築され、全体で54103戸となった。昭和36年建設分は、同年、同一平面で小浜社宅にも2戸並び1棟が建てられているが、三池鉱業所の木造社宅では最後に新築されたもの(移築は含まない)である。

 


昭和36年新築の4級F´型社宅

 

戦災復興事業による都市基盤の整備水準は、計画当時のライフスタイルや自動車の普及率等に合わせて整備されたため十分でない地区もあるが、この地区においては、広めの道路幅員(北の幹線道路25m、南の幹線道路30m、区画道路8m)、1haを超える中友公園(都市計画の近隣公園)など、現代の市街地環境の需要にも応え得るものであった。

 このように土地活用の自由度が高いうえに、大牟田市の中心街と再開発が進む岬町地区に近接地区というポテンシャルの高さからも、社宅解体後の土地利用が容易であった。

平成5年(1997年)に最も北の区画と東側の区画が解体され、北の区画は福岡県の大牟田児童相談所をはじめとする宅地、東側の区画はマンションの敷地となった。

その他の区画は徐々に解体され、平成11年(1999年)までにすべての社宅が解体された。中友公園北側の区画はドラッグストアの敷地、南側の区画は市営住宅と国家公務員宿舎の敷地となっている。

 


中友公園南側(新地町)の社宅(平成7年)

 

 

 

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