社宅見学会
1-3 臼井社宅
臼井社宅は昭和37年時点で545戸。連担する野添社宅と合わせて900戸以上の社宅地区を形成しており、駛馬南小校区最大の住区であった。
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臼井社宅 |
昭和恐慌を脱した日本は軍需により景気が拡大し、石炭の需要も増大した。鉱工業の拡大するなか、三川坑は昭和12年(1937年)に開鑿を開始し昭和15年(1940年)に竣工した。
三川坑の開鑿は社宅の増産、再整備にも影響していた。三川坑は三池港に隣接した斜坑であり、採炭及び運炭効率の飛躍的な向上が期待された。必然的に炭鉱労働者、港湾労働者の受け皿が必要となった。
臼井社宅は、港務所労働者用の社宅として、三川坑の整備に合わせ昭和12年から建設が始まった。社宅は戦前に一応完成していたが、戦争末期頃から昭和25年にかけて、南東側の斜面下の空き地に2戸並びが増築された。なお、156棟から158棟、160棟から164棟は戦時中に建てられたものが昭和22年頃に更新されている。
中央の大通りを中心とする社宅であり、社宅事務所、臼井診療所、保育園、三池商事、郵便局が設けられていた。浴場は中央通り沿いと敷地北東の2箇所に設けられていた。
空き家が増えてくると、共用施設は野添社宅と共有されるようなる。末期は2箇所あった浴場は閉鎖され、野添社宅の浴場を使用していた。
社宅は野添社宅と同様の造りであり、平屋5戸並びと2戸並びの長屋を基本としていた。(共用施設及び社宅建屋については野添社宅も参照していただきたい。)
平成の初め頃までは小規模な解体であったが、平成7年(1995年)頃にまとまった解体が行われ、閉山直前の平成8年では残存戸数は213戸、入居戸数は103戸となっていた。
解体は中央通りの東側が先行され、平成11年頃に1棟及び2棟を除き全て解体された。
跡地は北側の区画にありあけ浄水場及び住宅が整備されたが、それ以外の大半が太陽光発電所となっている。
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臼井社宅全景(北側4棟付近より 平成7年) |
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臼井社宅全景(東側旧バス路線より 平成7年) |
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平家5戸並び2K(平成6年) |
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2Kタイプ図面 |
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平家3Kタイプ内部(平成7年) |
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第二浴場正面(平成7年) |
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第二浴場脱衣所(平成7年) |
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第二浴場浴室(平成7年) |
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保育園跡の新労臼井集会所(平成7年) |
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三池商事南側の露店(平成7年) |
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最後に残った1棟・2棟の解体(平成15年4月) |
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