社宅見学会
1-2 四山社宅・大島社宅
四山坑の開鑿とともに、鉱業所に隣接して整備された鉱員用社宅である。当初建てられた2階建ての建屋は大正期に採用された社宅形式であり、万田社宅や三坑社宅で最初に建てられた。四山では10戸並びを単位とする長屋を基本とし、敷地の形状に合わせ、7戸、8戸並びの社宅も建てられた。大正期の2階建ては共用便所が別棟で設置され、後に専用便所が縁側に増築された。
四山社宅が整備された当初は、海岸線は山側近くであり、後に埋め立てが進み陸地が広がった。その埋立地に昭和9年(1934年)頃から16年頃にかけて増築された。増築された社宅は、陸地に近いほうが2階建て5戸並び、海岸線側が平屋建て2戸並びであった。西側は三川坑の管理であった。
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四山社宅・大島社宅 |
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赤:昭和20年解体 黄:戦後増築 青:中国人労働者収容所(昭和19年 米軍空撮) |
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整備当初の四山社宅(大正15年地図) |
この増築ラッシュの時期に四山坑に勤務していた祖父が2階建て社宅に入居した。筆者の父親はこの社宅で青年期まで過ごした。以下は父からの伝聞である。
戦時中、住んでいた棟の北側の並びが取り壊された。有明海側の平家には朝鮮の人が住んでいた。荒尾側には中国人労働者の収容所があった。境山の下、社宅側から早米来側に貫通して巨大な防空壕が掘られ、空襲のときに逃げ込んでいた。自分のときは三里小の分校はなかったが、弟たちは1年から3年まで分校、4年から本校に通っていた。
父の記憶は正確であり、昭和20年(1945年)初め頃に建物疎開で2階建て大小43棟が解かれている。荒尾側には、昭和20年に外国人労働者の収容施設が整備されている。この収容所は終戦後間もなく解体され、平家建て2戸並びの社宅が建てられた。三井鉱山は、福岡県側と熊本県側の社宅の棟番号を分けて(実際の県境とは異なる)管理していたが、2戸並びの完成以降、荒尾側を「大島社宅」とした。
戦後は、昭和21年(1946年)より平家2戸並び及び2階建て5戸並び、第二浴場が増築された。
このように新築、増築、解体、増築と戸数の変化が大きく、大牟田側においては棟番号の振り方の法則性がわからなかった。昭和37年(1962年)時点での戸数は以下のとおりである。
社宅名 |
四山社宅 |
大島社宅 |
合計 |
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階数 |
棟数 |
戸数 |
棟数 |
戸数 |
棟数 |
戸数 |
2階建て |
136 |
809 |
52 |
291 |
188 |
1,100 |
平家 |
79 |
158 |
93 |
186 |
172 |
344 |
計 |
215 |
967 |
145 |
477 |
360 |
1,444 |
社宅内の敷地には木造の寮、鉱山学校分教所、人事事務所、三池商事(売店)の他、三里小学校四山分校、保育園、グラウンド(野球場)、バレーコート、子ども用プール、講堂、四山クラブ、武道場、郵便局などの公共機能も充実していた。四山診療所は隣接する四山坑の施設の中にあったが、昭和45年(1970年)にグラウンド敷地の北西、旧木造寮付近に移設された。(昭和56年廃止)
昭和48年(1973年)に西側の平屋及び2階建ての一部が解体され、厚生施設や緑地が整備された。以後、老朽化が進み維持できなくなった建屋が解体され、平成元年(1989年)に全ての社宅が解体された。
四山社宅は都市計画法の工業専用地域であるため、跡地は住宅系の開発はされず、工業系の活用が進められている。
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四山70棟付近(昭和34年) |
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四山68棟北側2階建て解体後の大通り 左側の勾配屋根は第一浴場(昭和34年) |
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講堂北側の通り 四山坑と三川発電所を結ぶパイプライン(昭和50年代) |
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人事事務所(昭和60年頃) |
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四山40棟付近(昭和60年頃) |
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四山クラブ(北側より 昭和61年) |
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四山クラブ武道場(西側より 昭和60年頃) |
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講堂(東側より 昭和61年) |
【有明望嶽庵掲示板より】
四山社宅野球場ショートストーリー《2011/04/21 (Thu) 21:12:15》
四山社宅の野球場は県境の真上にあり、社宅のレクリエーションの拠点でした。
昭和20年代初めくらいまで、右翼後方に青年寮があったのですが、これが取り壊され、右翼約130m、左翼約100mの長方形のグラウンドとなりました。一塁側と三塁側に4、5段の木製の観覧席があって、人々はそこに座って野球観戦をしていました。現在の近代的な野球場に比べれば大変粗末なものですが、大牟田延命球場が整備されるまで、大牟田・荒尾地域で最高の野球場でした。
三池の鉱業所には四山坑だけでなく、三川坑、宮浦坑などにも野球部があり、・・・人によって評価は異なるかもしれませんが・・・四山坑にはいい選手がいたと言われています。
また、志免や日鉄二瀬など他地区の鉱業所のチームとの対抗戦は異様なほどに盛り上がっていました。
四山社宅野球場は地域最高の球場でありましたから、門鉄、八幡製鉄、東圧などの実業団も頻繁に来ていました。しかし、これらは都市対抗にも出場し、プロ野球選手を排出するようなチームでしたから、鉱業所のチームとは実力の差があったようです。
戦前、そして戦後間もない頃までは、プロ野球よりも大学野球のほうが人気を博しておりましたので、明治大学の野球部が四山社宅野球場に来たとき、うちの父は大喜びで見に行ったそうです。
この野球場があったおかげで、野球は社宅の生活に身近なものとなりました。四山社宅は四山側より1区から5区に分けられていましたが、それぞれの区の少年野球チームの対抗戦を経て、社宅選抜チームを編成、三里校区の大会に臨んでいました。小生の子ども時代も社宅のチームは何をするにも強く、特に炭鉱隆盛の時代にあって、四山社宅は巨人のV9や大鵬、白鵬にも勝とも劣らない常勝集団でした。
荒尾では万田坑のグラウンドでも盛んに野球が行われており、ここにもたくさんの球団が来ていたようです。
一定規模の社宅には、バックネットが設けられたグラウンドがありました。石炭はわが国の戦後の復興を牽引しましたが、野球による娯楽も炭鉱の振興策の一つではなかったかと思います。
その後、野球は文化として大牟田・荒尾に根付き、少子化となった現在でも、多くの少年野球、ソフトボールのチームがあります。
画像は昭和30年代の四山社宅の野球場。二面使って野球をやっています。
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過去ログ 四山社宅の軌跡
【余談】父と伯父の戦争の話
父の四山社宅でも生活史の一部である。
昭和20年7月27日未明の大牟田で最も被害が大きかった空襲と思われる。父は三井工業の生徒だった伯父と大防空壕に逃げ込んだ。早米来側から逃げ込んできた人の中には大火傷を負っている人もいて、防空壕の中は異臭がしていたそうだ。そこにいた大人たちが、伯父を連れて行き「お前のような若者がここにいてどうする。外で出て闘え。」と防空壕から放り出した。父は伯父が死んだと思ったそうだ。伯父は運よく生きていた。明けて早米来・浪花側を見ると地区の半分くらいが焼けていたそうだ。
その伯父は、8月7日の空襲で撃墜されたB24の墜落現場を見に行ったそうだ。この墜落では三井工業の学友が亡くなっている。墜落現場はすごい匂いがしていて、金髪の米兵搭乗員の亡骸を見たことを語ってくれた。
8月9日、父は四山で遊んでいた。多良岳と雲仙岳の間、遥か向こうの空に巨大な雲が立ち上るのを見たそうだ。大牟田、荒尾から長崎のきのこ雲が見えたという当時の人たちと同じ証言をしている。
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