社宅見学会

-13 龍湖瀬社宅

 

稲荷山から高取山までの丘陵地は、江戸中期頃から三池藩、立花藩による採炭が行われていた。龍湖瀬坑はこの丘陵地の一角にあり、藩営時代からの採炭場であった。大正10年に一旦となったが、戦争による石炭需要の拡大に伴い、一時的に採炭が再開された。

昭和21年、龍湖瀬坑の施設が置かれていた場所に、宮浦坑管理の20戸(1戸建て14戸、2戸並び36戸)の木造社宅が整備された。

通常、鉱員社宅は、浴場等の共同施設が必要であるため、一定の戸数が確保されるが、龍湖瀬社宅は共同浴場のある社宅の中で最も戸数が少ない社宅であった。

昭和43年の宮浦坑が閉坑した昭和43年(1968年)頃より、入居者の移転が進められ、昭和40年代終わり頃までに、全ての建物が解体された。

跡地は大牟田市が買収し、昭和54年より龍湖瀬市営住宅の建設が進められた。


龍湖瀬社宅


龍湖瀬市営住宅(平成6年 旧共同浴場付近)

 

 

-14 散田社宅

 

三田堤(※)の東側に、昭和23年に建設された、16戸(1戸建て8戸、2戸並び48戸)の職員社宅(5級)である。

6帖、縁側付き4.5帖、4.5帖、台所、浴室、便所、小屋(別棟1.5坪)という間取りで、戸当たり15坪という戦後建築の職員社宅の中で最小の社宅であった。同じ間取りで2パターンの平面形式があったが、2戸並びは田崎社宅、西浜田社宅、小浜社宅、松原町社宅などにあった5級社宅と同様のB型であった。

昭和40年代後半に1戸建て1戸が解体され、平成の初頭に離れた敷地にあった1戸建て4戸の土地建物が売却された。その後、閉山まで管理されたが、閉山後全ての土地建物が売却された。

一部の建物は売却後も使用されていたが、現在では、全ての社宅が解体され建て替えられている。

 

※:堤の名称は「三田」で地区の小字名は「散田」となっている。

 

 


散田社宅


2戸並び社宅(平成8年)


2戸並び平面図(5級B型)

 

 

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