社宅見学会

2−1−1 白金社宅

 

外部の人からは黄金町社宅と言われることもあったが、正式には白金社宅である。大牟田市内には白金町という地名があるが、たまたま近くに同じ地名があるというくらいの認識だった。

白金社宅は5戸並びの2階建て社宅が先行して建てられ、戦争末期より平家の4戸並び、戦後に2戸並びが建てられた。青年寮の北側の社宅を合わせ、昭和37年の時点で88330戸であった。(その少し前に312戸が解体されているので、最盛期は91342戸と推計される。)

平家建ては昭和40年代半ば頃より、社員への売却が行われた。昭和48年に西側2階建て、昭和54年に厚生会館付近、昭和57年に残る中央の2階建てから東側広場、共同浴場までが廃止され、宅地として分譲された。

 


白金社宅

 

【筆者の生活史】

父が所帯を持って住んだのがこの白金社宅だった。社宅は当時の一般的な他社のものと同じで、長屋で共同風呂、各家庭にコークスなどの石炭系の燃料が配給されていた。他の東圧の社宅にはなかった(というより会社全体の施設という位置づけだったのかもしれないが)厚生会館で、父と母は結婚式を挙げ、祖父母を呼んでの子どもの誕生祝いなどもやっていた。

ここの社宅の施設は、社宅では珍しく外部の使用を一部認めていた。筆者が通った小鳩保育園の運動会は社宅の広場で開催していたし、お遊戯会は厚生会館を借りていた。同保育園には東圧の社員の子女が多かったからかもしれないが、社宅の施設を社宅以外の者が使うことは他の社宅では聞いたことがなかった。

他の社宅ではグラウンドで社宅外の子どもたちが野球をしていると「外(がい)がうちのグラウンドば使いよる。」などと言っていた。(社宅は、社員の労働で稼いだ会社の益により維持されているので、負担のない外部の人が使うこと自体がおかしい、という理屈は成り立つのだが。)

ともあれ、筆者の勝手な思いではあるが、木造が並んでいた白金社宅は東圧の社宅の代表格である。

 

 

2−1−2 花園社宅

 


花園社宅(右は上官アパート)

 

 

白金社宅の北側、丘の上の花園町にあった管理職用社宅(石炭の4級社宅相当)である。戦前に建てられ、戦後も増築され、2戸並びの平家を基本とする2137戸の社宅であった。

筆者の友人の家は4K、専用浴室、納屋付きであったと記憶している。浴室は昭和40年代後半に改修されるまで五右衛門風呂。友人は生まれたときから上官アパートの社宅の広い共同浴場だったので、板を踏んで入る風呂を嫌がっていた。

小規模な社宅であるからやむを得ないが、社宅の広場の規模は小さく、遠くに飛ばないピンポン玉やゴムボールでしか野球はできなかった。

平成元年(1989年)に解体され、後の土地活用は徐々に進み、現在では北側に医療及び介護施設、南側が戸建住宅となっている。

 

 

2−1−3 臼井原社宅

 

合成の笹原北社宅の東側、戦前に整備された社宅である。もとは1戸建て2棟、2戸並び10棟、4戸並び7棟、全体で50戸の社宅であったが、昭和30年代半ば頃に2戸並び及び4戸並びの2戸を1戸として使用するようになった。

昭和40年代半ば頃より社員への売却が行われた。

 


臼井原社宅

 

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