社宅見学会

-11 小川開社宅・小川アパート

 

小川開は、江戸末期に完成した干拓地である。干拓地は田となっていたが、大正期より三井鉱山は鉱害補償を行っている。

三井鉱山はこの地区を取得して、戦後、宅地開発となる個人施行の土地区画整理事業を実施した。区画整理は、昭和25年(1950年)1213日認可、昭和37年(1962年)換地処分(事業完了)となっている。

小川開の区画整理では、鉱害地の浸水対策として、排水路及びポンプ場が整備された。このポンプ場は、閉山後、大牟田市に移管され、現在は諏訪ポンプ場となっている。

また、社宅内の街路樹が植えられた幹線道路はロータリー交差点とされた。我が国では戦前、戦後の道路整備でロータリーが設けられることも珍しくなかったが、道路事情に合わず廃止されているものが多い。小川開のロータリーは左回りで通行することが守られていたわけではなく、交差点の中心のモニュメントという役割が主であった。市内の大牟田警察署前交差点にあったロータリーは、交通量が増加してきた昭和30年代半ばに撤去されたが、小川開のロータリーは交通量が少ないうえに道路幅員も広く、跡地開発が行われるまで撤去されなかった。三井鉱山の社宅では、緑ヶ丘聖人原でもロータリー交差点が設けられていた。

 


小川開社宅


小川アパート建設後の小川開地区(昭和50年 国土地理院空中写真)

 

小川開社宅は、管理上は、職員社宅を含めた木造社宅地区の総称である。三井鉱山の場合は、棟番号が付され、集団的な管理が行われるのは従業員社宅(と一部の5級社宅)であり、職員社宅は、通常、○町○番地という住居表示のみであった。しかし、小川開のように多くの職員社宅が建てられている場合は、社内の財産管理用に設けられていた「財番」が棟番号札のように取り付けられていることもあった。

この地区の木造社宅は、区画整理の進捗に合わせ、昭和25年、北東側の敷地に三川坑管理の鉱員(従業員)社宅1326戸が整備された。この年は6級木造社宅の量産期の末期であった。三井鉱山は同年に約5千人の合理化(人員削減)を実施し、これ以後は、三池炭鉱の象徴とも言うべき木造の鉱員社宅は建設されなくなった。小川開の鉱員社宅には3つの形式があったが、いずれも3間と板の間を有しており、6級社宅のなかでは広い住宅であった。

その後、昭和27年に職員社宅46戸(三川坑、本所)が中央から南側の敷地に建てられ、昭和29年に小浜社宅より2戸移築、さらに昭和41年に元三川区買収家屋2戸を移築した。職員社宅50戸は全て戸建であり、級別の内訳は2級3戸、3級6戸、4級41戸(小浜地区より移転新築されたものもあった)であった。戦前、終戦直後の木造社宅の外壁は下見板張り、上級社宅は押縁付き下見板張りが一般的であったが、この地区の職員社宅は羽目板の相じゃくり縦張りという当時としてはモダンな外壁となっていた。

なお、木造社宅は、鉱員用小川アパートの建設に合わせ、鉱員社宅48戸が解体されたが、それ以外は閉山まで管理されていた。さらに、2級社宅3戸と4級3戸は、跡地が開発される平成24年(2012年)まで残っていた。

 


小川開木造鉱員社宅1棟(平成7年)


小川開4級職員社宅 財42付近(平成7年)


小川開4級職員社宅 財14(平成7年)

 

 

小川アパート(←画像はここをクリック。2級G型の木造社宅もあります。)は、三池炭鉱の社宅政策の転換を象徴する社宅である。

鉱員社宅の建設は、先述したとおり、昭和25年で鎮静化するが、木造社宅全体で見れば、昭和27年(1952年)の小川開、原山町などの職員社宅の建設でひと区切りとなっている。

以来、約5年間、社宅の建設はほぼ止まり、次に建設されたのは、昭和32年(1957年)から33年にかけての白坑、長溝などの簡易耐火造の社宅であった。これらは、労務管理の最前線に立つ初級職員用(上級鉱員の入居もあった模様)の5級社宅であり、鉱員用社宅を拡大する意思は見られず、その後もしばらく社宅建設は行われなかった。

三井鉱山はさらに合理化を進め、その結果、昭和34年(1959年)に三池争議が勃発する。三池争議以降、合理化は進展し、社宅には空家が発生していった。

この潮流は全国の炭鉱に共通していた。三井鉱山は、昭和38年、美唄、田川などの閉山する鉱業所から2,200人を三池に配置転換することとした。会社全体の事情により、三池鉱業所には社宅の需要が発生した。

小川アパートは、このような状況の下、計画された。

昭和39年(1964年)から41年にかけて、21276戸の3階建てアパートが建設された。このアパートは6畳が2間、4畳半、居間兼食事室兼台所(LDK)、専用浴室、別棟の物置を備えており、5級に相当する社宅であった。新築時の入居者は、三池鉱業所の他地区の社宅からの転居が多かったと思う。(閉山鉱から来た筆者の知り合いは全て既存の木造社宅に入っていた。)各棟には敷地の区画ごとに100番台から500番台の財番が棟番号として付けられていた。

なお、アパート建設と合わせて、ロータリー交差点付近に三池商事小川町店が設置された。

 

他地区の閉山鉱からの配置転換があったとはいえ、三池鉱業所ではそれを上回る合理化が進んでいた。木造社宅の空家は増え、老朽化が進行していた。

昭和49年(1974年)、地区の北東側(空き地及び木造14棟から17棟の解体跡地)に4階建て488戸のアパートが完成する。久々の鉱員用のアパートであった。解体が予定されていた四山、東谷、宮の原などの社宅の入居者の転居先となった。

このアパートには、棟番号、部屋番号に「4」は付けられなかった。棟番号は1棟、2棟、3棟、5棟、部屋番号は、1階はA、2階はB、3階はE、4階はFが付けられ、A1A2A3A5、…とされていた。

間取りは、6畳が2間、4畳半、食事室兼台所(DK)、専用浴室、別棟の物置(戸当たり1坪弱)とされており、木造の5級社宅並みであった。

ただし、小川アパートは1間が6尺(約1,820mm)程度、さらにコンクリートの壁厚により畳1枚の大きさが狭かった。三池鉱業所管内の木造社宅は1間が63寸(約1,910mm)、65寸(約1,970mm)、66寸(約2,000mm)とされているものが多く、間取りについては割り引いて考える必要があろうが、核家族の進行と相まって鉱員社宅の居住水準が向上していることは明らかである。

なお、敷地内には、小川アパート専用ではないが、集会用の施設として、昭和46年(1971年)に新労十周年記念会館(別館として結婚式場を設置)が建てられている。この建物は会社が建てたもの(労働組合が自費で建てたものではない)であり、三井鉱山の労務政策を垣間見ることができる。

 


三池炭鉱新労働組合十周年記念会館見取図

 

以上のように、小川アパートは社宅の集約という役割を担った。鉄筋コンクリート造で耐用が長く、場所も中心部に近いということもあり、その後の石炭の斜陽化に伴う社宅の集約にも使われ、閉山後十数年残っていた。

隣接する岬町では閉山前から再開発が行われ、公園などの公共施設、有明海沿岸道路のインターチェンジやショッピングモール、大学などが整備された。小川町地区は非常にポテンシャルの高い地区となり、平成19年頃より戸建住宅、集合住宅が建設された。小川アパートは売却された1棟を除き、平成24年(2012年)までに全て解体されている。

 


炭住跡地開発後の小川開(小川町)地区(左は旧鉱員用アパート 令和3年)

 

社宅平面図(同一スケール)


木造職員社宅2級G型


木造職員社宅3級C型(他 A型1戸あり)


木造職員社宅4級D型(他 E型、F型等多数あり)


木造鉱員社宅6級 1棟〜13棟(他 2型式あり)


小川アパート(職員用共同社宅)


小川アパート(鉱員用共同社宅)

 

 

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