社宅見学会

-7 宮の原社宅

 

宮の原社宅は、三池工業高校の南及び東に隣接した社宅であった。もともと小字の宮原は宮原町1丁目であり、宮原町2丁目の宮の原社宅は小字名で一丁玉と筒井原の一部である。通称は宮原(みやはら)社宅であるが、三井石炭では「宮の原社宅」で管理されていたので、ここではその名称を使用する。

 


宮の原社宅


戦中の宮の原社宅 赤枠を建物疎開で解体(昭和19年米軍空撮)


大正15年地図の宮の原社宅

 

現在の三池工業高校の敷地では、明治16年に三池集治監が開庁し、以降、囚人を炭鉱労働に従事させた。囚人の使役は官営から三井経営になってもしばらく続いた。

三池集治監の囚人の中には、刑期を終えて釈放された後も炭鉱労働を生業とする者もおり、その労働者の住まいは放免小屋と呼ばれた。

放免小屋は一丁玉に建てられており、後に宮の原社宅となった。したがって、宮の原社宅は明治近代化以降、最も古い炭鉱住宅地区の一つということになる。

宮の原社宅は増改築を繰り返しながら長期間使用された。

戦時中には建物疎開で一部が解体された。

昭和22年から23年にかけて、敷地の西側の1棟から6棟、南東側の40棟、41棟の平家2戸並びが建てられた。昭和37年の時点で55190戸(職員社宅を除く)であった。

昭和40年代半ば頃から、部分的な解体が始まる。昭和49年に敷地南側保育園付近の宅地開発、昭和56年の宅地開発に伴い全ての社宅が解体された。

昭和50年代で大正7年建設の社宅が存在していたが、大正15年地図との照合により、10棟から18棟までが同年建設と推測される。

 


明治32年建設と言われた一丁玉の「放免小屋」(石川保氏提供 建設年は未確認)

 

 

【文献の紹介】

宮の原社宅については、筆者があれこれ言うより、農中茂徳さんの著作「三池炭鉱宮原社宅の少年」(石風社)が最も参考になる文献である。

同書は、宮原社宅で育った農中さんの「自分史」であり、少年の社宅の生活が見事に描写されている。場所は違えども、筆者が過ごした東洋高圧の社宅でも、似たような生活を送っていた。三錬、染料などの社宅も大差はないだろう。

つまり、当時の大牟田の社宅民の多くに共通する生活史と言うことができる。

小鳩保育園の前の道を少し南に行けば、宮の原社宅の木造住宅群が見えていた。筆者が住んでいる東圧の社宅から近かった。しかし、近くても遠くに感じていた。その理由が今はわかる。この本にも書いてある。

有明望嶽庵が自信を持って推薦する秀作である。

 

 

 

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