社宅見学会
1-1 勝立社宅
勝立地区では、勝立坑が開鑿された頃より、坑口周辺(後の通松社宅付近)に社宅が建設されていた。勝立坑は官営から三井経営に代わる次期に操業を開始した古い坑口であり、昭和3年に閉坑した。(終戦直後に一時的に再操業)
勝立地区が大社宅地区となるのは軍需により石炭及び石炭化学の生産が拡大する昭和7年(1932年)頃からであった。当時、三井鉱山は化学部門を保有しており(漸次、分離独立させていく。)、宮浦坑の東、七浦坑の北の三坑町にあった宮浦坑の鉱員社宅(「0 はじめに」の地図参照)を化学工場の増設のために移転させる必要が生じた。その移転先として勝立地区が選ばれ、従前からあった社宅の再整備を含め、大規模な社宅整備が行われた。
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勝立社宅 |
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昭和19年頃の勝立社宅(米軍空撮地図) |
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大正15年頃の勝立地区(大正15年地図) |
さらに、戦後の復興期に社宅が増築され、最盛期には約1,700戸の社宅地区となった。この地区の社宅には宮浦坑の鉱員が居住しており、昭和21年からは三池鉄道での人員輸送が行われた。(東谷駅〜勝立駅〜宮浦駅)
三井石炭鉱業で勝立社宅として管理していたのは、県道大牟田植木線(県道はあとから整備されたので厳密にはその北側の旧道が境となっていた。)の北側は東側から宮前、紅葉ヶ丘、通松、大砂、南側は朝日ヶ丘、月見ヶ丘、馬渡、天道、東谷の各社宅である。勝立社宅は勝立地区の社宅の総称であり、実際はこれら個々の社宅を単位として管理され(当番号は社宅ごとに付されている)、住んでいる人たちもそれぞれの社宅名で呼び合っていた。
大牟田市の最大の炭住地区といえば、当時の市民のほとんどが勝立を連想するだろう。勝立社宅は、化学系の青葉地区及び笹原地区の社宅、三井石炭の臼井・野添地区の社宅とともに3,000戸を超える広大な社宅地区を形成し、大いににぎわった地域であった。
昭和37年戸数 |
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大砂社宅 |
197戸 |
通松社宅 |
219戸 |
紅葉ヶ丘社宅 |
202戸 |
宮前社宅 |
215戸 |
朝日ヶ丘社宅(アパートを除く) |
205戸 |
月見ヶ丘社宅 |
173戸 |
馬渡社宅 |
318戸 |
天道社宅 |
58戸 |
東谷社宅 |
96戸 |
計 |
1,683戸 |
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鉄扉時代の勝立坑(現在はコンクリートで閉塞されている ) |
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