社宅見学会
1-6 小浜南社宅
小浜南社宅は、小浜北社宅が整備された翌年、昭和15年に10棟、昭和16年に15棟、昭和17年に共同浴場と10棟が整備された三川坑の鉱員用の社宅である。
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小浜南社宅 |
社宅の形式は小浜北社宅と同じ2階建て5戸並びである。
当初は40棟200戸であったが、戦中、社宅のグラウンドとして使われていた北側の中央の列5棟が建物疎開で解体された。
終戦直後には北東の2棟、南西の1棟が解体されていることが確認できる。これも建物疎開によるものと考えられるが、空襲による焼失の可能性も否定できない。(東側筋向いの第八国民学校と青年学校は戦災で焼失している。)
小浜南社宅は、終戦後は32棟160戸となった。戦前、小浜北と南の社宅は小浜町従業員社宅として一体的に管理され、棟番号も通し番号となっていたが、戦後は北と南に分離され、新しく当番号が付けられた。
以後、小浜北社宅同様の軌跡をたどり、昭和50年代半ばに浴場が廃止された。家屋は敷地南側の寮の建替拡張及び家屋の老朽化による解体があったが、それほど多く減じられず、平成8年での残存は27棟135戸、うち入居戸数は74戸であった。
なお、閉山後、三井石炭は社宅の退去期限を平成10年9月末までとしたが、小浜地区の社宅入居者に限っては、小浜南社宅跡地の小浜南市営住宅が完成する平成11年3月までとされた。
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小浜南社宅全景 旧堤防より(平成6年) |
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21棟 ガスボンベは専用浴室の増築部分(平成7年) |
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手前30棟 奥25棟(平成6年) |
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旧棟番号32棟〜36棟跡地のグラウンド 建物は手前から6、7、8棟(平成7年) |
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昭和17年新築の小浜南社宅共同浴場(昭和40年頃) |
この社宅の事務所は昭和22年に建てられ、昭和30年代半ばに集会所と健康相談所が増築された。
また、小浜・小川町地区の社宅地区の社宅整備を担当していた三井鉱山建設部の出張所があったが、この建物は改造され、社宅の仮眠所として使われていた。仮眠所は後に集会所として使われていた。
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小浜南社宅事務所(昭和40年頃) |
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小浜南社宅内仮眠所(昭和40年頃) |
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小浜保育園平面図(昭和40年頃) |
敷地南側には、小浜保育園があった。
石炭の大規模な社宅には保育園が設けられていたが、そのことに少し触れておく。
三池鉱業所の保育園は児童福祉法に基づき認可された保育所である。しかし、この保育園は鉱業所従業員の子女のみを対象としており、一般市民が利用できるものではなかった。国庫や県費の負担は一切なく、経費は企業が支出していた。保護者の負担は、おやつ代などの実費だけであった。(とは言うものの、会社の原資は社員の労働による利益であるため、社員全体で全額負担していると言うべきか。)
保育園の園児は3月31日の年齢で4歳児と5歳児であったが、例外的にそれより低い年齢の子どもを受け入れていた園もあった。
大牟田市内の社宅では、小浜の他、勝立(宮浦)、四山、野添、新港、臼井、宮原、三港(新港の別棟)に設置されていた。(七夕は幼稚園。詳しくは七夕社宅を参照のこと。)
荒尾市内では、万田、緑ヶ丘、大谷、宮内、原万田、西原の各社宅に設置されていたが、鉱業所が大牟田市の所在となっていたため、保育所としての所管は福岡県及び大牟田市であった。
これらの保育園は人口が流出に転じる昭和30年代後半から整理されていった。
小浜保育園は最も長く存在した保育園であり、小浜南社宅に合わせ昭和16年に建てられた講堂(集会所)を改造して保育園とされた。
昭和23年7月1日、福岡県知事の認可を受け法に基づく保育所となった。他の保育園が整理され、鉱業所最後の保育園となったが、平成元年3月20日をもって閉園した。
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