見聞録

 

#065 松屋解体小話

松屋の解体にまつわるエピソードを忘れないうちに書いておく。

松屋は大正町再開発が企画されていた時代に、建替えを目的とした解体が検討されていた。当時、直接その企画をされている某社の技術者の方から、松屋の建物についていろいろ聞かれた。「松杭が使用されていると思っていたが、図面に混擬土杭と記載されているが何か知っているか?」「それはコンクリートパイルのことで、この地域では、既にその頃、コンクリート杭が使われていた。同時期建設の大牟田市庁舎も混擬土杭。」などと地方の建設史のような話をしたことを覚えている。その方は、某社の広島支店の勤務が長かったそうで、原爆に遭ったコンクリート建物の解体を厄介に思われていた。コンクリートは高温で焙られると強度が低下する性質があって、そのような建物の解体は危険作業となるというのだ。特に、解体用の重機を屋上に載せ、解体しながら降りてくるという工法となる高層の建物では、重機が転倒するという事故も起こるそうだ。「大牟田のまちも焼け野原になって、松屋も建物のなかで人が焼け死ぬような火災に見舞われている」と話すと、困った顔をされていた。

あれから10年、今回の松屋解体のプロジェクト(?)に携わられた業界の某先輩に話を聞くことができた。以前の予想通り、昭和12年建設の本館部分は、圧砕機を軽く噛ませただけでボロボロと崩れたそうだ。特に上階はひどかったようだ。それで、重機を建物の上に載せて解体しながら降りてくるという工法は断念し、解体したコンクリート砕石で仮設の斜路を造り、そこからロングブームの圧砕機で解体するという方法を考えたそうだ。そして、斜路を造るには解体現場だけのコンクリートだけでは全然足らず、解体を施工していたK社の所有となっている、あの旧三池炭鉱有明坑の解体作業(櫓以外の施設)で出てきたコンクリートガラを粉砕し、松屋の解体現場に大量輸送したとのこと。解体現場を見た人も多いと思うが、実際にあの斜路に使われた砕石のボリュームは相当なものであった。この発想は素晴らしいと思った。

また、別館と本館をつなぐ地下通路は、公道の下となっているため解体不能で、通路に砂を充填した後、端部をコンクリートで固めたとのこと。基礎は板部(業界用語でフーチング)までしか解体しなかったそうで、「混擬土杭」は今も埋まっているとのことだった。

建物の解体後の敷地は、暫定的な利用がされるほかは、今のところ目立った動きはない。この場所の派手な開発を期待するものではないが、次の利用がされることを期待しつつ、松屋の記憶を留めたい。

写真をクリックすると松屋の解体の様子が見れます。081228

 

 

 


#064 最古の警鐘台

手鎌小学校の北側、円光寺から大牟田北高へと向かう唐船地区の道沿いに、消防団手鎌分団第4部の警鐘台がある。最近の警鐘台は電柱型であり、少し古いものは鉄骨の警鐘台。しかし、この警鐘台はコンクリート製の角柱であり、市内でこのタイプは見たことがない。

近づいてよく見るとなんと昭和9年の銘板が埋め込んである。何とあの近代化遺産といわれる大牟田市庁舎本館J工場、今はなき松屋よりも古い警鐘台ではないか。建てられて既に74年の歳月が経過している。大牟田では消防団の再編成が進められており、聞くところによると、この警鐘台は記念すべき75周年を向かえる来年、取り壊されるとのこと。(後から建てられた家屋はあまりにも近過ぎて、また、電線も走っており、解体は難しい工事になるだろう。)

構造的に大丈夫かと問われれば、専門家としては「そろそろ危ない」と答えざるを得ないが・・・いや、もったいない。近くを通る方は、記念撮影でもされておくことを勧める。

写真をクリックすると大牟田最古の警鐘台が見れます。081124

 

 

 


#063 九州地区高等学校野球福岡南部大会

923日、小郡市野球場に高校野球を見に行った。カードは大牟田高校vs.春日高校。大牟田高校は一昨年、この大会を勝ち抜き、見事、選抜の切符を手にした。地元・大牟田の高校野球を牽引する存在であり、福岡県下でも野球に力を入れている強豪と言ってよいだろう。対する春日高校は、過去に21世紀枠の福岡県からの候補となった文武両道の県立校である。大牟田高校の2007年選抜出場のとき、甲子園まで観戦に行った。(見聞録#047参照)春日高校も縁があって応援している。完全に個人的ではあるが、今回の大会の好カードである。

エースを欠きながらも継投で投手を繰り出す大牟田、エースの粘投でふんばる春日、初回に1点を先制した大牟田がそのままリードを保っていたが、7回、3人目の変わったばかりの大牟田の投手を春日が打ち砕き、5点をもぎ取るビッグイニングとなった。

結果は61で春日の勝利。リーグ戦をすれば、選手層が厚い大牟田に分があると思うが、そこは一発勝負のトーナメントの高校野球。継投が裏目に出ることがあれば、続投が吉となることもある。終盤まで緊迫した試合を見ることができた。

同日行われた三池高校vs.東福岡高校も、進学校の三池が、2007年夏の出場校東福岡を破っている。これも快挙である。

佐賀北のようなミラクルはそうないとは思うが、公立高校の快進撃を応援し、大牟田高校の夏の大会での奮起にも期待する。

写真をクリックすると大牟田・春日戦が見れます。080924

 

 

 


#062 井筒屋久留米店

812日、久留米井筒屋は六ツ門の店舗を来年2月末で閉店することを発表した。3年前、見聞録#019で久留米のことを書いたが、いよいよ、井筒屋の閉店が現実のものとなる。

井筒屋久留米店は、1936年(昭和11年)に開店した旭屋を1962年(昭和37年)井筒屋が買収、子会社化したもので、当時の建物が増築、改装されながらも、今も使われている。

久留米は、もともと、JR久留米駅側にあった城下町である。その久留米に、1889年(明治22年)、後の国鉄となる九州鉄道が敷かれる。1897年(明治30年)、小倉師団が駐屯、後に久留米師団となり、軍都として発展する。大正時代から生産が始まったアサヒコーポレーションの地下足袋はゴム化学工業を発展させ、昭和に入ると同社のタイヤから分社したブリジストンが躍進する。

1924(大正13年)、後の西鉄となる九州鉄道の福岡・久留米間が開通、また、1928年(昭和3年)、久大線、久留米・筑後吉井間が開通し、久留米のまちは旧城下町から西側へと拡大していった。

旭屋が出現した背景にはこのようなまちの発展がある。この百貨店は六ツ門地区の商業の核となるとともに、西鉄久留米駅から六ツ門までの間の一番街、二番街の隆盛を引っ張った。それは、井筒屋経営となってからも同じであった。

久留米井筒屋が久留米のまちの発展に寄与したことは疑いようのない事実である。しかし、既に地方都市での百貨店は立ち行かなくなっている。久留米市長の「いつかこういう時期が来ると想定していた。ショックは受けていない。」(毎日新聞筑後版813)という言葉は実に冷静でクレバーである。おそらく、久留米岩田屋についても何らかの想定がされていることだろう。大牟田やその他の地方都市の例を見るに、「想定」の次の手を打つのは非常に難しい。既成市街地の空洞化、スラム化は地方都市にとって大きな問題である。この難局を知恵と工夫と久留米パワーで乗り切られることを期待し、応援している。

写真をクリックすると井筒屋久留米店の様子が見れます。080829

 

 

 


#061 昆虫記2008

数年前、子どもが拾ってきたクヌギの実を庭に埋めていたらニョキニョキっと芽が出た。2年くらい放っておいたが、枯れずに育っていた。クヌギは大きくなるので、庭ではマズイ!と某所に活け替えた。某所の土は赤土だったので、三池公園から腐葉土を取ってきて、根元の土を入れ替え、朽木の丸太を根元に置いた。子どもとは「お前の子どもが生まれたとき、カブトムシが取れるよ」などと話していた。

その後、クヌギはぐんぐん大きくなり、今では幹周りが45cmほどになった。昨年から、カブトムシやクワガタムシが来るようになった。そして今年は大繁殖をしている。

今月に入ってこのクヌギを観察していたが、最初に群がったのはカナブンだった。パッと見ただけで20匹くらいはいたが、これだけウジャウジャいるとカナブンであっても気持ち悪い。次に来たのはクワガタだった。ノコギリクワガタ、ヒラタクワガタ、コクワガタが計10匹くらいいた。メスが幹に穴を掘っている。クワガタはクヌギを支配した。そして、1週間前からカブトムシが押し寄せてきた。はじめはメスが2匹だったが、少し遅れてオスが来た。オスが来るとクワガタを蹴散らし、今ではクワガタの姿をほとんど見ることがなくなった。クヌギの木はカブトムシ帝国となった。その他、スズメバチやチョウも来る。カナブンはクワガタ、カブトムシ、スズメバチに追い回されるが、しぶとく残ってレジスタンとなっている。

これらのムシはクヌギの害虫である。既に幹肌は荒れ放題。穴だらけにされる日もそう遠くないと思われる。大都会では見られない、田舎ならではの楽しみではあるが、孫ができるまでこの木はもつのだろうか。

写真をクリックすると某所のクヌギの様子が見れます。080723

 

 

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