見聞録

#020 きび団子屋台

先日、正山町で久しぶりにきび団子屋台を発見した。早速、買った。きなこの懐かしい味はそのままだった。

屋台を引いておられたご主人に話を聞くと、もう大牟田のきび団子屋台の最後の1台ということであった。『うちの親父も病気して、私が引いています』とおっしゃっていた。

小生が住んでいた白川の社宅にもやせ型で唇の平べったいおばちゃんがチャカチャカ音を鳴らして屋台を引いて来ていた。もうそのおばちゃんも引退されているのだろう。

さて、小生が知っているきびだんごはビー玉大の団子を串に差したきびだんごで、本場のきびだんごがどういうものかは知らない。

丸めただけのきび団子があったような気もするが、桃太郎がお腰に付けていることから、もともと携帯用の食糧だったのだろう。

しかも、それをもらったら、下手すると殺されるかもしれないような鬼退治にでもついていくというくらい美味い、そして価値のある団子だったと思う。

そのようなきび団子も今の子どもたちにはうけない味かもしれない。ともあれ、きび団子屋台は間違いなく大牟田の宝物である。見かけた方は『ラッキ〜』と思って買っていただきたい。一本60円也。【050310

 

 

#019 久留米一番街

久留米といえば小学3年生のとき、月星ゴム工場を見学に行ったことと、中学2年生の冬に久留米市民会館にコンサートを見に行ったくらいしか実体験での思い出はない。何か用があるときは福岡まで行っていたので、久留米のことをそれほど知っているというものでもない。しかし、一番の衝撃は、1980327日、伝説のテレビ番組ザ・ベストテンで沢田研二が一番街に落下傘を広げ『TOKIO』を熱唱したことであった。大学や社会人になって、同世代の久留米出身の方と話すときはこの衝撃を共通の話題としていた。

先日、久留米の某銀行に寄った帰り、一番街を歩いてみた。夕方だったので、学校帰りの学生や仕事を終えたサラリーマンで賑わっているかと思いきや、意外と人の通りが少ない。そして、二番街、六ツ門アーケードへと歩いていくとさらに人通りが少なくなった。シャッターが下りている店舗もポツポツある。井筒屋にも入ってみた。ダイエー本社の不振でダイエー六ツ門店も閉鎖店舗のリストに入っているし、正直言ってこのまちは危ないと思った。

大牟田も久留米も郊外型の量販店ができて人が集まる場所が変わったと思う。従来からの商店街で再開発を企画したが大牟田でも久留米でも計画断念。新栄町駅はある程度の乗降客はあるものの、駅利用者は駅と家の往復だけでまちには寄らない。西鉄久留米駅ではペデストリアンデッキの工事中だったが、駅に人が集まっても果たして『まち』に人が出て行くのだろうか。

アーケード、百貨店、スーパー、再開発計画・・・これらのまちのアイテムは全て大牟田にもあった。大牟田で『まち』と呼ばれた場所は今、壊滅状態である。まちの趨勢を見ると大牟田と久留米でもそう変わりはないのかもしれない。(幸運なことに久留米は福岡市の都市圏で人口はまだ減っていないが)

沢田研二のパワーを受け止めた四半世紀も前のエネルギッシュな状態にまで戻すことはできないのだろうが、大牟田を久留米の趨勢ととらえ、せめてスラム化だけは避けられないかと思う。【050227

 

 

#018 大牟田に牛丼

先月、大牟田の大正町通りに牛丼の『すき家』がオープンした。大牟田・荒尾地区に初めて牛丼店が出現したのだが、今のところお客さんも入っているようで、まずまずの滑り出しのようだ。

牛丼は東京(FC牛丼の元祖『吉野家』)で2度ほど食べたことがある。牛丼は日本版ファーストフードということは知っていたが、積極的に食べたいとは思わなかったし、当時すでに企業戦士だったので、二百何十円という値段すらあまり魅力を感じなかった。

で、オープン初日に行ってみた。やはり昔と同じで『牛肉で味が付いたメシを詰め込む』という食感で小生には合わないと思った。貧困の学生生活を関東で過ごしていたら、この味にも慣れていらだろうが・・・。

牛丼チェーン店の全国各地に進出して30年くらい経つが、20万人のマーケットとなる大牟田・荒尾地区に今まで進出しなかったのは、食習慣のリサーチの結果ではなかろうか。つまり小生だけでなく大牟田周辺の人々には牛丼は受け入れられないと思わ

れたからだろう。

食べているお客さんは高校生くらいから40代くらいが多いようだ。大牟田人の食の好みも関東化してきているのだろう。何だか時間の流れに取り残されているような気持ちになった。【050219

 

 


#017 新生ホークス

今年は野球ネタが多かったが、最後にホークスの経営譲渡の話で終わることとする。

東京に住んでいた頃は、所沢球場や川崎球場の南海戦を見に行っていた。19881020日、南海ホークス最後の試合となった川崎球場のロッテ戦も見に行った。当時、パリーグの人気は今よりも低く、中でも南海vsロッテは特に不人気のカードであった。川崎球場の南海戦には数回足を運んだが、スタンドのお客さんを『1人、2人、3人、4人・・・・』と数えることができた。(本当の話)

身売りは決して悪いことではないと思う。あんなに強かった南海も最後はボロボロ。ダイエーに変わって、時間はかかったが、多くのファンを獲得し強いチームになった。しかし、最近のダイエー本社の経営状況によりホークスは身売り話が出ては消えるという不安定なポジションとなっていた。

ところで、小生の家には図らずもホークスの帽子が4つある。写真左上は南海ホークス時代の子ども用のもので内側には『年・組・名前』という札がある。右上は東京ドームの対日ハム第1回戦で配られていたものである。まだ球団帽の販売が始まっておらず、有志により配布されていた。FDHのマークはアイロンで圧着されたもので、内側には『協賛 キューピー』と書かれている。左下のものはいつの間にか持っていたもので、この頃はFDHが白いロゴのものもあり、フランチャイズとビジターを使い分けていたと思う。そして、右下のものがここ数年使われていた最後のダイエーホークスの帽子であり、長男(小3)のお気に入りである。新生ホークスも長男から支持される球団となることを願う。【写真をクリックすると福岡ダイエーホークスが見れます】041231

 

 


#016 近鉄バッファローズを忘れない

20041130日、大阪近鉄バッファローズが消滅した。1950年の設立以来、パ・リーグで唯一親会社が変わらなかった球団だった。

物心がついた頃の近鉄は本当に弱く『プロ野球のお荷物』とまで言われていた。(鈴木啓示はその弱小時代が絶頂期で最終的には317もの勝ち星を上げた)

リーグ初優勝は1979年で、このときの日本シリーズの広島vs近鉄というカードはオープン戦かと思われた。しかし、石渡のバントをカーブでウエストした『江夏の21球』といわれる球史に残る名勝負が繰り広げられ、世間にプロ野球の奥の深さを知らしめた。結局、近鉄は最後まで日本シリーズを制することができなかったが、その存在感でプロ野球を盛り上げてくれた。

もうしばらくすると大石大二郎が監督に就任し、村上隆行がコーチになり、近鉄の人気は盛り返すのでは・・・と思っていたが、残念ながらその日は来なかった。

鈴木、阿波野、野茂、佐野(ナイスキャラクター賞)といった名投手が目に浮かぶ。マニエル、デービス、ブライアント、クラーク、ローズ・・・近鉄の外人は本当によく打った。そういえば山本和範も近鉄でプロのスタートをきった。地味だったが実力派も多かった。オリックスに行く選手も、楽天に行く選手も、(もちろん他球団に行く選手も)近鉄バッファローズにいたことを誇りにこれからも頑張ってほしい。【写真をクリックすると大阪ドームに行けます】041204

 

 

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