見聞録

 

#055 新生!草木饅頭江口栄商店

草木饅頭江口栄商店は、継承者がいないため、昨年、熊本・陣太鼓で有名な香梅に譲渡された。その後も屋号は変わらず営業を続けていたが、このほど、草木の本店が新装開店となった。

草木饅頭には数々の思い出がある。草木饅頭は黒田家か江口栄商店か、というローカルな論争もあった。小生の家からはどちらも同じ距離で、三池高校東門下の江口饅頭にはやぶれ饅頭を買いに行ってしたし、黒田饅頭の隣にあった煙草屋に親父からスポーツ新聞を買いに行かされ、そのついでにちょっと黒田饅頭でも・・・ということもあった。

草木饅頭にこだわる江口と新商品の研究にも余念がない黒田。味の好みは個人によって違うだろうが、どちらも求道者であり、草木住民はもとより大牟田市民の誇りである。

新しくなった江口饅頭に立ち寄ってみた。店頭には、少量ではあるが梅や栗の菓子、祇園饅頭が並べてあった。店員さんは「このお菓子はここでは作っていません。よそで作ったものを持ってきています。」と話してくれた。江口饅頭が、経営が譲渡されても、草木饅頭で押すのだろう。

その昔、近辺の高校生は授業をサボってお茶と草木饅頭でダベっていたという。草木饅頭はそのような庶民の牧歌的な風景が似合う。食が満ち足りた時代、たまには地元の素朴な銘菓をほおばりながら、束の間のスローライフを楽しむのもいいのでは。

写真をクリックすると江口饅頭のリニューアルの状況が見れます071114

 

 

 


#054 松屋の窓出現

今年6月、旧松屋の外壁からコンクリート塊が直下の道路に落下し、その後、足場が架けられ対策が施されていた。

足場が解かれた後、旧松屋は窓がたくさんある昔の姿に戻っていた。窓をふさいでいたボードが外され、窓廻りのコンクリートが撤去されている。今回の施工からは、窓廻りに原因があったことをうかがい知ることができる。

現在の店舗設計では、採光の期待できない排煙窓が付けられる程度であり、店舗、商品は照明により演色性が確保される。自然光をたっぷり取り入れる設計はかなり昔のものであり、大牟田でも昭和40年代半ばに建設された井筒屋やさんえいは、窓の少ない設計となっている。根拠はないが、松屋の窓は、昭和50年の改修でふさがれたのではなかろうか。右の写真でもわかるとおり、ふさがれなかった窓はアルミ枠(白っぽい窓枠)に替えられている。

しかし、あらわになった鋼製窓は趣がある。網入硝子が入っているので、建築基準法成立以降の窓であろう。建設当初は、木製であったかもしれないが、昔の松屋を再現したかのようだ。松屋ファンには、解体される前に一回見ておくことをお勧めする。

写真をクリックすると松屋の窓の特集が見れます071022

この記事を書いた翌日の西日本新聞の朝刊で松屋解体が報じられていましたので追記します。【071024

◆大牟田の松屋跡地売却 柳川の建設会社に 利用計画は未定◆

2004年に閉店した福岡県大牟田市本町の百貨店「松屋」跡地の売却先が22日、同県柳川市の土木建設会社「コガ信工業」に決まった。松屋の破産管財人と同社の間で同日、売却手続きが行われた。同社は「再開発の方策は未定だが、中心市街地の活性化につながるようにしたい」としており、松屋閉店で核店舗を失った大牟田市の中心市街地再生が、ようやく動きだすことになった。

同跡地をめぐっては当初、地元商業者らが本店部分を買収する計画が持ち上がったが頓挫。昨年は、宮崎県門川町の宅地建物取引業「安井開発」が複合商業ビル建設の計画を進めたが、事業を実施する業者が決まらず断念していた。

コガ信工業との交渉は今春から始まり、破産管財人はすべての地権者と抵当権者から同意を得たという。

破産管財人の橋本千尋弁護士は「地域に貢献したいということだったので、話を進めた。まとまって良かった」と話している。同社は「なるべく早く建物の解体作業に入りたい」としている。

松屋は1937年創業。6階建て本館と3階建て新館を合わせ、売り場面積は約1万平方メートル。大牟田市の中心市街地の顔だったが、97年の三井三池鉱閉山や景気低迷などで経営難に陥り、2002年に民事再生法の適用を福岡地裁に申請。再建努力したが売り上げは伸びず、04年7月に閉店、同8月に破産宣告を受けた。

大牟田商工会議所などは今月中旬、同社に対し、中心市街地の活性化に配慮した利活用を求める要望書を提出している。

2007/10/23付 西日本新聞朝刊=

 

 

 


#053 遺構付きの売地

荒尾自動車学校から長洲港に向かう道沿いに、無骨なコンクリート造の倉庫がある。旧東京第二陸軍造兵廠荒尾製造所(地元では二造と呼ばれている)の火薬倉庫に使われていた建物である。荒尾の二造は戦時中の火薬工場であり、新生地区には、このようなコンクリート造の遺構が残っている。戦場に放置されたトーチカのような無骨さが、造形美とも言える雰囲気を出している。

二造の構造物は、荒尾では遺構として認識されているが、その歴史的価値に対する市民の評価はそう高いものではないと思う。

先日、この倉庫の前に『売地』の看板を発見した。新生地区の旧陸軍の土地(国有地)は、公共利用を含め、売却さているが、これら遺構の残っている土地は、なお国の管理下にあるものが多いようだ。倉庫は写真のような建築物型だけでなく、半分土中に埋まった防空壕型のものもある。防空壕型の上部は民家の敷地に使われているようにも見受けられ、土地の所有関係がどうなっているかわからない。

ともあれ、写真の看板には「243.30u(73.59坪)売却価格167万円。申込期限平成191022日。」となっている。この土地は、歩道付の広い道路と56mの道路に面している。坪価格は2.27万円。近代化遺産のジャンルには入らないのかもしれないが、遺構付きの土地価格としては破格(?)である。買う人が現れるか、そしてこの遺構はどうなるのか、注目している。

写真をクリックすると他の二造の遺構が見れます070929

 

 

 


#052 延命プール新装オープン

84日、延命プールが新しくなってオープンした。古いプールは、老朽化が進行し、2001年(平成13年)に閉鎖された。以後、大牟田市民は、甘木山のプールを使っていたが(南部では荒尾市営も使っていた)、これまた昨年閉鎖。プール好きの方々は「今年はどうしようか」と思っていただろう。

昨日、末娘と新しくなった延命プールに行ってみた。旧50メートルプールと管理棟があった平地の部分だけに施設が造られ、昔の25メートルプール、貸切プールのほうはあいかわらずクローズであった。スライダー付きで今風のプールとなっている。施設が縮小されたとはいえ、夏は子ども達で賑わうことだろう。

昔のプールがオープンしたのは1957年(昭和32年)。上官町に住んでいた小生は、昭和40年代の初め頃から親父に連れられて行っていた。当時はナイターをやっていて、タワーの上の水銀灯が今でも脳裏に焼きついている。親父は、いたいけな小生を連れて50メートルプールに入っていた。当時は恐怖以外のなにものでもなかった。成人しても『深い!』と感じていた50メートルプールは、飛び込み台と合わせて延命プールの『硬派』イメージのシンボルだった。

「今どき屋外、夏季限定はないだろう」とか「50メートルプールはないのか」とか「何で高いカネを使って造るの」とか、いろいろな批判があるが、とにかくオープンしたので、最大限に活用されることを祈っている。

余談ではあるが、ユーザーとして、プールのどこからでも見れる時計がないのは、大衆のプールとして設計ミスと思った。

写真をクリックすると延命プールの今昔が見れます070812

 

 

 


#051 湯のまち大牟田2〜変わりゆく大牟田ハイツ〜

#046 湯のまち大牟田」に掲載していた甘木山・大牟田ハイツの天然温泉「月の雫」が、本日、新装オープンしたので、さっそく行ってみた。

室内の風呂は、熱めの風呂、常温の風呂、水風呂、とサウナ、屋外は寝湯と露天風呂という造り。館内に畳敷きの休憩所と御土産売場があった。入浴料は大人500円、子ども250円、5枚綴りの回数券が2,000円。オープン記念でハイツ本館の和・洋食レストラン全品20%引きのサービス券(92日まで有効)が配られていた。露天風呂の手すり越しに観る初島、工場群、鷹取山などは、大牟田人の心の景である。

入浴されている初老の方の会話。A「こんだけ温泉が増ゆると500円は高こうなかろか。」、B「いや、うから館(南関)までの交通費ば考ゆるとそげんなかろうだい。」この短い会話の中でも、最近の大牟田近辺の温泉の激戦ぶりがうかがえる。大牟田・荒尾の温泉の開業で、南関うから館のお客さんは減っているとのこと。ここらの住民は1日に4回も5回も風呂に入るわけではないので、施設間で競争はあるだろう。ともあれ、ハイツの天然温泉が大牟田北部のやすらぎの拠点となることを祈る。なお、廉価な本館の風呂も継続して営業しているとのこと。お湯を堪能したい方は、本館のほうでもいいかもしれない。

写真をクリックすると大牟田ハイツの今が見れます070721

 

 

 

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