大牟田の映画館

 

大牟田に現存する映画館の建物は、旧セントラルと旧宇宙館。両館とも営業しなくなって久しい。とりわけ、旧宇宙館は、経営者が変わりながらも下のスーパーの営業が続いたので、昔ながらの姿で残っている。外壁にはツタが生えていて、伝統あるかの甲子園球場のような雰囲気を出している。しかし、スーパーが続けられなくなったら、建物の取り壊しもあると思う。

 


ツタがからまる旧宇宙館(2007年)

 

旧太陽館が解体される前に、館の中を見た人の話を聞いたが、当然のことかもしれないが、昔ながらの映画の座席とスクリーンがあったとのことだった。一度、旧宇宙館の中も見てみたい気がする。

さて、昭和32年(1957年)の職業別電話帳によると、大牟田にあった映画館は下表のとおりである。

 

映画館名

所在(現在の建物等)

太陽館

大正町1丁目(現 セブンイレブン)

大天地

大正町1丁目(現 セブンイレブン筋向いの駐車場)

セントラル

大正町1丁目(現 1階テナント 映画館空家)

グランド

栄町(旧大牟田パック 旧カホ無線)

アカデミー

同上

銀星

有明町(現 大牟田・柳川信用金庫本店駐車場)

旭映画劇場

旭町(現 西日本シティ銀行駐車場 フジヤパン隣)

宇宙館

一浦町(現 新鮮館2階)

大宇宙館

新町(現 ドラッグストアモリ 日の出屋・OBC跡)

冨士映画劇場

日出町(現 S税理士事務所付近 旧ブラザーミシン事務所)

国際

中島町(現 駐車場 旧ダイエーまるまつ)

大牟田映劇

末広町(現 A薬局 旧スーパー末広付近)

友楽館(三川東映)

三川町2丁目(R薬局付近)

金星

三川町5丁目(現 大牟田・柳川信用金庫三川町支店)

 

昭和32年は、大牟田地区の映画館の入館者数のピークであり、以後、観客が減少の一途をたどることになる。グランド、アカデミー、金星は昭和40年代を迎えることできなかったが(国際は大天地と併設となった)、入館者数は減っても30年代は映画は庶民の娯楽であり、大正町2丁目の旧紳士服の一色(現ショウパブ)の場所に中央松竹、同じく現シティビル(旧まるやす)の場所に大映ロマン、橋口町の現大牟田・柳川信用金庫銀座支店の場所に大牟田東映がオープンしている。

 



三川町5丁目にあった金星映画劇場(1957年)

閉館直前の冨士映劇(1965年)

 

映画館の経営がいよいよ厳しくなったのは昭和40年代に入ってからで、大牟田の映画館は閉館が相次いだ。昭和50年時点では太陽館、大天地、セントラル(スクリーン数は増えた)の三館となった。この三館は、パチンコ店とセットという記憶がやけに強い。太陽館にはナショナルパチンコ、大天地にはマンモスパチンコ、セントラルにはセントラルパチンコ、当時の映画館経営の定石だったのかもしれないが、映画館の1階にはパチンコ店の煙草の臭いが渦巻いていた。

生き残った三館は松竹(大天地)、東映(セントラル)、東宝(太陽館)の興行をやっていて、三館体制が続いた昭和62年(1987年)まで、邦画は全国の封切りと同時に大牟田でも観ることができた。(洋画は遅れることも多かった)

1987年(昭和62年)、大天地が閉館。怪獣映画や漫画祭がなく、青年期では大牟田を離れていたため、この映画館とは縁遠かったが、以後、大牟田で寅さんシリーズが観られなくなった。(『男はつらいよ』は1997年まで続く)

1989年(平成元年)4月、太陽館が閉館。大正4年(1915年)からの歴史に幕を閉じた。太陽館はゴジラシリーズをやっていたので、最も通った映画館だった。『日本沈没』を観たのも太陽館で、当時は本当に日本が沈むと思っていた。昭和39年の建物で475席、1階に太陽レコードがあった。

2006年(平成16年)1月、大牟田で唯一となっていたセントラルが閉館した。4スクリーンで1階はセントラル劇場、日活セントラル会館、2階はオスカー大牟田東映、3階はスカラ座。映画化された『あしたのジョー』を観た映画館。小生は、漫画祭に関しては東映よりも東宝(太陽館)だったが、その後は、セントラルにも結構行ったと思う。うちの子ども達が、閉館直前(突然の閉館だったのでそうとは知らなかった)に『ハリーポッタと炎のゴブレット』を観に行った。大牟田の映画館を経験できたことは幸運だった。

 



解体直前の太陽館(交差点の向こうは大天地跡地 2002年)

閉館したセントラル劇場(2006年)

 

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