栄町物語

W.まちの発展

 


秋のカーニバルで歩行者天国(1974年)


スリムなデザインのアーケード(1980年)


CI事業第2期工事で完成したモニュメント

近代的で若々しい新栄町の出現に対し、古いイメージ商店街である銀座地区でも店舗改装やカラー舗装によりイメージアップが図られます。松屋も増床や改修で井筒屋に対抗します。(「松屋の24,362日」参照

一部の商業に影響があったことは否定できませんが、心配されていた買い物客を二分することによる「共倒れ」も起きず、銀座地区のリニューアルなど、その後の結果からは、大牟田の商業の底上げをしたと言えるかもしれません。筆者も消費者の一人として振り返ると、新栄町と銀座地区には回遊性があったと思います。親に連れられて井筒屋に行くと「ちょっと松屋も見てみろか」と商品の比較をするために、まちを引き回されていました。

栄町の整備後、高度成長期は間もなく終わり、大牟田の人口も減少を続けます。しかし、国民生活はまだまだ豊かさを求めており、購買意欲が拡大していた時期でした。新栄町、銀座地区の商業はその風に乗って発展しました。

地元の経済界では、新栄町のエネルギーを都市の発展の原動力として活用する取り組みが始まりました。当時、大牟田駅までしか乗り入れていなかった産交バスや瀬高町までの堀川バスを新栄町まで引っ張り、熊本県北、筑後地区からの吸引の強化が画策されました。

また、まちの魅力をアップする努力もされました。新栄町の完成から10年目となる1980年(昭和55年)、全国初のデザインと言われたアーケードが歩道上に設置されました。この頃の新栄町は、全盛期とも言える時期であり、大変にぎわっていていました。昼間は買い物客で賑わっており、放課後の中・高校生も買い物などの用はなくてもブラブラしていました。夜はアルコールを出す飲食店もあり、若者のナンパ車もたむろしていました。新栄町はにぎわいと危なさを兼ね備えた繁華街でした。

1989年(平成元年)、新栄町商店街活性化構想が発表されます。これは地元で『新栄町CI事業』と呼ばれた構想であり、スクラップ・アンド・ビルドの再開発で計画された松屋地区に対し、施設が比較的新しい新栄町地区は改修を行っていこうというものでした。

1992年(平成4年)、CI事業の第1期工事が完成しました。メインの車道、歩道にタイルが貼られ、同時にさんえいからサンパレス間の道路で朝10時から夜10時までの自動車通行が規制され、歩行者天国となりました。1994年(平成6年)に第2期工事『風のアベニュー』が完成、ステンレス製の大きなモニュメントが設置されました。第3期工事は1998年(平成10年)に完成、『ハミングロード』が整備されました。しかし、このとき既に新栄町は体力を失いつつありました。

 

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