栄町物語

V.新栄町の誕生

 

1968年(昭和43年)4月、西鉄は2箇年交渉を続けた三化グラウンド49,500uの用地買収に関する調印を行いました。この調印で、グラウンド内にあった三西容器は東泉町に、三化生協(染料の売店)は地区西側に、1969年(昭和44年)1月までに移転することとなりました。

西鉄は、新栄町の開発の目玉として、資本関係のある井筒屋百貨店(久留米井筒屋)を据えることとしました。その頃の商店街は、松屋を旗艦として存在していました。当時は人口10万人で1つの百貨店が成り立つといわれており、新たな黒船の出現に既存商店街は戸惑い『あんな場所に駅を造って利用者はいないのでは』『新たな百貨店は商業基盤が回復するまで進出を見合わせるべき』と反対の声を上げました。一方、西鉄、井筒屋は強気でした。1969年(昭和44年)5月末の大牟田市の人口は182千人でしたが『大牟田は人口15万人を割ることはない。また、三井グループが大牟田に定着しておりその購買力は大きい。まちはまだまだ伸びる。新栄町商店街で年間250億円の売り上げが可能。』としていました。そのような目論見があったので、西鉄は新栄町開発を完遂すべく、地元対策として、西鉄は開発地区に地元商店街の出店できるブロックを設けました。

そうなると、地元の商業者の意見も分かれ始めます。『出店のための負担が大き過ぎて投資が回収できない。』という反対派もいましたが、『新商店街にスーパーで進出されるより百貨店のほうがよい』という容認派も増えてきました。商工会議所も組織的に反対とは言えず、新栄町開発計画は進められていきます。

1969年(昭和44年)3月、三西ストア(三井東圧生協と三化商栄会)が完成し『染料の売店』が移転しました。古い施設が無くなり、同年5月に造成工事が始まります。新栄町の開発は本格的に進むことになります。昭和44年初め頃、出店予定の店舗として、久留米井筒屋、日祐スーパー(佐賀)、丸食スーパー(東新町より移転)、スーパーサニー(大牟田川沿い栄町の旧大牟田パックの場所で営業中)、丸栄(ユニードの前身)の大型店の名前が上がっていました。大牟田松屋も新栄町に姉妹店を出すかまたは移転する予定となっていました。地元五商店街では、井筒屋、松屋に対抗する商店街デパートを造ることが検討されていました。これは新駅前商店街建設委員会が設置され、具体化していくことになります。

実現したものもあれば、しなかったものもありますが、新栄町では雨後の竹の子のようにビルが建設されていきます。1970年(昭和45年)4月、西鉄新栄町駅と西鉄名店街がオープンします。同年10月には井筒屋大牟田店と新栄町商店街第1ブロック(キタジマスポーツの並びのビル)、11月にユニード大牟田店、翌年にはマルショク大牟田店、さんあい(後のさんえい)、一番街、47年に大牟田パレス(後のサンパレス)がオープンし、約5haの新栄町ショッピングセンターが完成します。

 


井筒屋と松屋が並んだ当初の計画図


1970年末の新栄町(工事中、未着工のビルも多い)

 

 

前のページへ     次のページへ

新栄町物語メニューへ

おから研究室トップページへ

トップメニューへ

 

SEO [PR] 爆速!無料ブログ 無料ホームページ開設 無料ライブ放送