復興期・昭和後期の松屋
上:昭和21年 下:昭和25年 |
三池炭鉱は我が国の戦後の復興を牽引しました。
疎開から戻ってくる人、引揚者、炭鉱に食い扶持を求める人々の流入で大牟田は再び活気づきました。
地域の復興の波に乗って、被災した松屋も復活し、再び活況を呈するようになしました。
1954年(昭和29年)には売場を拡張するために3階建て(891㎡)が増築され、松屋の躍進が始まります。今だったら大規模店が売り場面積を増やそうとすると地元の中小零細店から総反対が起こりますが、朝鮮戦争を助走にして我が国の経済も順調に回復、地元は炭鉱景気で商品を並べれば売れる時代、すんなりと増築が行われました。松屋の快進撃は周辺の商業をけん引します。
翌年には銀座通りアーケードが完成。松屋を中核とした雨でも傘をささずに買い物ができる商店街ができあがりました。
1958年(昭和33年)からは、あのミュージックサイレンが鳴り始めました。
6時55分『ボルガの舟唄』、11時55分『春の小川』、16時55分『埴生(はにゅう)の宿』、21時55分『菩提樹』。
1979年(昭和54年)1月から翌年の6月まで機械の故障で中断しますが、ミュージックサイレンは確かに
このサイレンは松屋から8kmくらいの範囲で聞こえたと言います。筆者は上官、白川の社宅でこのサイレンを聞いていましたが、そのときは心地よい音量と思っていました。ところが、本町近辺でこの音を聞くと相当な音で驚きました。
エスカレーター運転開始(S.40.7.10) |
昭和30年代半ばから始まった高度成長により国民の所得が伸び、消費も飛躍的に拡大されました。松屋は大盛況、日祭日は店内のお客をさばききれなくなっていました。
そこで1965年(昭和40年)、本館にエスカレーターが設置されることとなりました。このエスカレーターは1時間に約8,000人の運搬が可能と言われていましたが、設置されたのは1階から3階までの上り用だけでした。それでも『動く階段』の出現にお客は驚きました。
松屋は1968年(昭和43年)に清水屋本店(きよみずや)を買収します。翌年、清水屋本店の店舗(閉店まで惣菜等の食料品売場として使われていた部分2,017㎡)を松屋の店舗に加えました。これにより15,000㎡の百貨店(売り場面積は10,000㎡)となりましたが、このときも地元商業者の反対は少なかったようです。
もともと松屋は『小松ストア』や『スーパー松屋(のちの「まるまつ」)』でスーパーマーケット経営(※)を行っていましたが、市内各所で庶民の拠り所となっていた『きよみずや』も松屋の傘下としました。
※1964年(昭和39年)に小松ストアを完全分離、1994年(平成6年)に㈱まるまつ休止、2001年(平成13年)3月の㈱エムマートの休止でスーパーマーケット経営は終わった
松屋は店舗での販売だけでなく外商の強さも武器でありました。1969年(昭和44年)に柳川出張所が開設され、南筑後の販売戦略の拠点とされました。
また、社宅の集会所にもサンプルの商品を持ち込んで積極的に販売が行われていたことも記憶しています。
なお、松屋の外商部は1988年(昭和63年)に独立し松屋販売サービス㈱となりました。
1970年(昭和45年)、新
井筒屋の煉瓦調の外壁は地域にインパクトを与えました。筆者も井筒屋をはじめて見た時のことを今も鮮明に覚えていて、大牟田に未来都市が建設されたと思いました。
商売敵の出現に松屋は危機感を抱きました。1973年に元・野田金物店を買収増築、1975年(昭和50年)に本館の改修工事、1977年(昭和52年)に小郡出張所と久留米出張所を開設、1979年(昭和54年)に道路を隔てた敷地西側の倉庫跡地に総合事務所を建設し管理体制を強化しました。
その甲斐あって、1981年(昭和56年)の2月決算では売り上げは100億円を突破(102億34百万円)しました。この年の記録は松屋が閉店するまで塗り替えられることはありませんでした。
昭和30年銀座アーケード完成 |
昭和30年代後半の松屋 |
屋上遊園地(昭和30年代後半) |
昭和58年頃の松屋(緑とベージュのツートンカラー) |
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