栄町物語

X.大型店の閉鎖

 


オープン初日のゆめタウン駐車場(2001.10


閉店後、菱井桁のマークが外された井筒屋(2001.12

1987年(昭和62年)、現在の誠修高校付近の国道沿いにオサダ、ウイズユーといった郊外型量販店がオープンします。これらの店舗は、大規模な無料駐車場を備えたうえに、大量仕入れによる価格設定、高級ブランド品などには手を出さず売れるものを売るという商品の選択により、繁盛しました。連日、自動車での買い物客でにぎわい、倉永、元村、田隈、草木などの国道沿線住民から『ディスカウント渋滞』と呼ばれる交通混雑も発生していました。

栄町のCI事業は、このような商業環境の変化が背景にありました。中心部の商店街は郊外型量販店に脅威を抱きました。特に、駐車場については、新栄町の整備された当初から問題とされていました。新栄町最後の着工となった旧サンパレスの区画は駐車場として整備してはどうかいう意見が地元商店街にありました。しかし、建設計画を発表する際、事業主である西鉄側は『既に設置している西鉄タクシー駐車場の利用率は6割程度である。一帯の駐車場は不足しているとは思わない。』という見解を示していました。地元経済界は有明振興開発会社を組織し、栄町駅跡に駐車場ビルを建設しようと活動しましたが、その取り組みもうまくいかず、西日本相互銀行大牟田支店の建設用地となりました。

筆者の感覚ではありますが、西鉄の言うとおり新栄町周辺の駐車場の総数は不足していなかったのかもしれません。しかし、不便と感じる民間駐車場の場所や『○千円以上お買い上げで●時間無料』という値ごろ感のなさは、ディスカウントストアの駐車場の便利さを知ったユーザーを引きつけるのには厳しかったと思います。ディスカウントストアの駐車場にもハード的な維持費や土地の税金がかかっている以上、本当は無料ではなく、消費者が支払った商品の代金に利用料が含まれていると考えなければいけないのですが、人の感覚はそういうものではないのでしょう。

消費者が求めていたものは、手軽に自動車で行けて、欲しいものがある、という店でした。日本が成長社会から成熟社会へと入り、大衆は物質的にはほぼ満足するようになりました。流通業も変化を遂げ、百貨店でなくてもモノは手に入るようになったのです。さらに、バブルの崩壊は百貨店と商店街という構成の新栄町の衰退に拍車をかけました。CI事業の初めの頃はまだ投資の余力があった新栄町ですが、第3期頃は体力を失っていました。バブル崩壊後の平成7年、ダイエー大牟田店(ユニードが会社合併によりダイエーとなった)が閉店、1999年(平成11年)にさんえいが閉店、ゆめタウン大牟田がオープンした2001年(平成13年)に井筒屋が閉店、2003年(平成15年)にサンパレスが閉店、2004年(平成16年)にエマックス大牟田(旧称:西鉄名店街)が閉店。昭和40年代半ば、雨後の竹の子のように整備された大規模店舗は、将棋倒しで閉店していきました。

毎年11日現在で公表される地価公示を国土交通省のHPから拾ってみました。(地価公示は都道府県の調査した額であり、実際の取引価格ではありません。)1993年(平成5年)以降、新栄町126外(井筒屋北側の旭屋のブロック)が調査地点となっていますが、その変化を表すと下のグラフのとおりです。大牟田市内の商業地のピークは平成35年であり、新栄町126外のピークも、おそらくそのあたりでしょう。地価は下落を続け、2007年(平成19年)では1993年(平成5年)の15%になっています。バブル崩壊で全国的に地価下落が発生しましたが、それを割り引いたとしても、この地価公示の変化は、新栄町、そして大牟田の評価の一つと見ることが出来るのかもしれません。

 


 

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