栄町物語

Y.記録と記憶

 

栄町にはたくさんの大型店がありました。現在のモール形式の大規模店の隆盛ぶりを見ると、大牟田では新栄町のような店舗、まちは造られないと思います。個々の店舗について主観を交えて記しておきます。

 

【西鉄名店街】(エマックス・オオムタ)


在りし日のエマックスオオムタ

1969年(昭和44年)9月に着工し、翌70年(昭和45年)428日に、新栄町駅とともにオープンしました。新栄町の駅と、黄色のボディに赤のラインの2000系特急はよく似合っていたと思います。

売場面積は2,414u、工事費は4億円。西鉄名店街は百貨店のような規模はありませんでしたが、ハイセンスな個店が集まっていました。当初の店舗料は売上の8%(最低歩合として1階は4,800/月・坪、2階は4,000/月・坪)。まち全体の集客力もよくわからないのに、この額はリスクが大き過ぎるとも言われていました。

1階の階段脇の噴水も雰囲気がよく、エレクトーンの演奏などのイベントがあっていました。アイビーファッションで流行したVANショップがあり、男性ファッションもあるテナントミックスがよかったと思います。レコード店のサウンドヒロカネにはよく行っておりました。Babakomeさんは『店は狭いのにヒロカネ〜』とおっしゃっていましたが、この面白くも何ともないシャレが当時は合言葉だったようです。

2階味のタウンは結構おいしいものがあったと思います。喫茶レストランの湖畔は当時の大牟田ではしゃれたお店でした。三笠うどんは日本版ファーストフードでした。エマックスの末期まで残っていたカレーのナイルは人気があり、持ち帰りのパック入りもよく買っていました。

2006年(平成18年)にテナント部分が解体され、駅だけになってしまいました。

 

 

【井筒屋大牟田店】


駅、エマックス、そして井筒屋

大牟田の井筒屋は、北九州市に本社のある活苴實ョの子会社である葛v留米井筒屋の大牟田店でした。もともと久留米には旭屋という百貨店があったのですが、1962年(昭37年)井筒屋と資本提携し、久留米井筒屋が誕生しました。1970年(昭和45年)102日オープン。総面積は13,440u。当初売場面積は11,271uで計画されていましたが、当時の松屋が9,589uであり、その差の1,682uは催事場、ギャラリーとすることで、折り合いがつけられました。

久留米井筒屋は井桁のマークが広告塔の白をバックに付けられていましたが、大牟田井筒屋は塔屋まで煉瓦調のタイルが貼られ、その煉瓦色をバックに井桁が付けられていました。視覚的には久留米よりもゴージャスな雰囲気でした。地下・食品売り場には泉水があり、その中に硬貨が投げ入れられていました。神社や言い伝えのある池でもないのに、何故デパートの人工的な泉水にご利益があるのだろうかと不思議に思っていました。

筑後初のクロス式のエスカレーターが設置されていましたが、当時、松屋には上りのエスカレーターしかなく(それでも十分と思っていました)、乗ったときには衝撃を受けました。

2001年(平成13年)120日閉店。閉店後はゆめタウン大牟田の一角にテナントとして入りました。

2002年(平成14年)613日から818日までの間、北九州市の井筒屋の子会社潟買Bヴィアンが『毎日バーゲン堂』という日用雑貨店を開くも長続きしませんでした。2004年(平成16年)に潟Rンダクト地域再生グループが土地と建物を買収し、マンション建設のために解体まで行いましたが、その後の進展はありません。

 

 


ユニード前の通り

【ユニード大牟田店】(ダイエー大牟田店)

1970年(昭和45年)1117日オープン。総面積は7,085u、売場面積は5,025uの5階建てのスーパー。ユニードは渕上百貨店のスーパーマーケット版で、福岡では渕上ユニードとも呼ばれていました。

当時は屋上にプレイランドがありましたが、松屋、井筒屋の屋上を知っている子どもには全くうけず、知らぬ間に無くなっていました。また、エレベーターにはエレベーターガールがいなく、自分でボタンを押せましたが、いかんせん重厚感のないエレベーターで、百貨店のように乗るのが楽しみ、というようなものではありませんでした。

楽しみだったのは、昭和50年くらいの改装で道路側に作られた軽食屋さん(「ドンドン」という屋号だった思います。右の写真ではまだ開店していません。)でした。当時、露店のたこ焼きにはたこが入っていなかったのですが(みじん切りで入っていたのかもしれませんが)、ここのたこ焼きにはちゃんとたこが入っていて、子ども心に幸せを感じていました。

高千穂カメラは、開店から閉店まで入っていたと思います。デジタルカメラが普及する前に、ユニードから変わったダイエーは閉店し、高千穂カメラもなくなりましたが、アナログ時代の代表的なカメラ店という印象が今も残っています。

解体された跡地は、新栄町商店街が買収し、駐車場として使われています。

 

 

【マルショク大牟田店】


マルショクと駅を結ぶ歩道橋

1971年)(昭和46年)3月オープン。総面積4,147u、売場面積3,960u、4階建てスーパーマーケット。新栄町開発当初からの大型店では最後の生き残りとなりました。

栄町駅と歩道橋でつながれていて、2階から駅の券売所に行けるのは大変便利でした。まちにはたくさんの時計店がありましたが、なぜか3階の時計屋さんがお気に入りでした。また、1階正面の屋外で売られていたバナナにあこがれていたました。

以前は、ユニード、三西ストア、ダイエーまるまつ(スーパー松屋)、まるやすなど、新栄町・銀座近辺にはたくさんのスーパーマーケットがありましたが、線路より西のまちで、食品が買えるのはもうここくらいです。

 

【さんえい】

1971年(昭和46年)1210日オープン。総面積5,017u。三池専門店会加盟の14店が共同出資して協同組合さんあいを設立、建設には3億円の工事費を要したと言われています。オープン当時は「さんあい」と言っておりましたが、1972年(昭和47年)に組合名の変更で「さんえい」となりました。


閉鎖されたさんえい(2005年)

1階は愛の広場、2階は花のある町、3階は星と川のある町というコンセプトで、女性をターゲットにしたビルでした。あまり行く機会がありませんでしたが、昭和50年代半ば、1階に太陽レコードが入った時期があり、そのときはたまに入っていました。

さんえいの特徴は、何と言っても正面のシンボルタワー。エレベーターはユニード並みのものでしたが、ガラス張りの中にらせん階段、「このデザインは都会だ!」と思いました。先日、まちを通ったときに、シンボルタワーのおおよそのスケールをあたり、写真を見ながら再現してみました。(ここをクリックして下さい→)さんえいのシンボルタワーは新栄町のシンボルでもあったと思います。

1989年(平成元年)、協同組合から福岡実業鰍ェビルを買収しましたが、その後、バブルが崩壊し、1999年(平成11年)8月にさんえいは閉店。福岡実業鰍燗|産し、整理管理機構等に差し押さえられていました。2003年(平成15年)に競売にかけられ、大牟田市が落札し、活用の検討が行われていましたが、現在では鳥栖市の許Lに売却されており、マンション建設の報道がされていました。

 

 

【大牟田パレス】(サンパレス)

もともと、この場所は武田和ビル建設予定地とされていましたが、計画が進まずに西鉄が買い戻しました。そして、1972年(昭和47年)8月、41千万円の費用が投じられたボウリング場がオープンしました。しかし、ボウリングブームはまもなく下火になり、1977年(昭和52年)の改装で、家電のサン商事としてリニューアルオープンとなります。

2階はボウリング場の形状のまま使われていました。だから、レーンに降りていく階段があってフロアに段差がありました。改装とともに、1階にサンパレスレコードが開店しました。市内では新しいレコード店だったので、行く楽しみがありました。

また、それ以前から外側には愛光レコードがありました。愛光レコードの袋は黒に赤ラインというシンプルなものでありましたが、市内のレコード店のパッケージのなかで最も好きなデザインでした。

南側の路地のほうにあった喫茶スナックのノンノン。この店は深夜まで開いていて、インベーダーゲームが流行った頃は大牟田では考えられないくらい、にぎわっていました。夜遊び好きの青少年の居場所でした。

2002年(平成14年)3月、サンパレスは閉店し、他のテナントも退去しました。2006年(平成18年)、建物は解体され、現在は西鉄所有の更地となっています。

 


閉鎖されたサンパレス(2005年)


なつかしの愛光レコードのパッケージ

 

 

【三西ストア】


三西ストア前(角に「寿司のサンキョー」)

1969年(昭和44年)3月に完成した三西ストアは三井東圧生協分(地下1階地上1階、売場面積1,417u)と三化商栄会分(平屋495u)の店舗が地下通路(595u)で連結されていました。三井化学工業(三池染料)と東洋高圧は1968年(昭和43年)10月に合併していましたが、前身の『染料の売店』という呼び名のせいか、三西ストアは旧染料の系列というイメージが強いと思います。三西ストアは三池の交番横、米の山に行く途中にも店舗がありました

三西ストアはもとが生協というだけにあまりパッとしない建物でした。しかし、商品のほうは食料品を中心に頑張っていたと重います。

栄町交差点の前あたりに「寿司のサンキョー」がありました。三池の三西ストアにもサンキョーがありました。当時は意識していませんでしたが、三化生協から「サンキョー」の名前がついたのでしょうか。筆者の三西ストアの思い出はこのサンキョーです。サンキョー寿司は親がよく買ってきていました。箱の中身は決まってカッパ巻き、イナリ、巻き寿司。小学校低学年くらいまでは、親からのマインドコントロール(情報操作?)により、寿司とはこの三つのことを言うと思っていました。騙されていたことに気づいた今も、サンキョーにはにぎり寿司があったのかどうかは知りません。

親になった今、子どもには「回っているところがニッポンの寿司屋だ!」と教えています。筆者が親から受けたものより格段に質が向上したマインドコントロールです。

三西ストアの跡地は、レマンパチンコ店になっていましたが、2007年(平成19年)に閉店し、建物は広島の聡商という会社が競売で取得したと報道されていました。

 

 

【その他】

大牟田初の機械式立体駐車場の大徳、ホテルスカイプラザ、入浴料が1,500円もしたサウナフィンランド(当時サウナは珍しかった)、紳士服のキョーエイ、ベスト電器など、他にもいろいろありました。全盛期の商業、レジャーの集積は相当なものだったと思います。

 

 

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