大野下駅木造駅舎の記録

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駅の開設で地域の生活の利便性が向上した例を紹介します。

うちの祖母の実家は大野下駅からそう離れていない場所にありました。大正3年生まれの祖母は、高等女学校に進学する際、この地域の交通事情が悪かったため、久留米師団にいた叔父さんのところに下宿して、久留米高女に通いました。「高瀬までは2里あった」とのことでしたが、目の前を走る汽車には乗ることができず、女学生の足で通うには遠い2里でした。

祖母には妹がいましたが、妹が女学校の年齢になったとき、大野下駅が開設していました。祖母には遠かった「2里」は克服され、晴れて玉名高女に通うことができたとのこと。我が家の家系にもこの駅の恩恵がありました。

話は脱線しますが、高齢となった祖母の高女時代の話を少しだけ記しておきます。日本が豊かでなかった時代、高等女学校に通える子女は恵まれていたと思います。女子の四年制大学の進学率は、2008年に42.6%となっていますが、祖母の頃の高女進学率は15%程度でした。間もなく96歳となる祖母は「東京は日本のキャピタルで〜」とハイカラな歌(何の歌かは知らないが)を歌います。祖母は英語が得意だったそうです。音楽の試験ではフランス国歌「ラ・マルセイエーズ」を歌わなければならなかったとのことで、現在、音楽の時間に習うビートルズの先駆けのようなカリキュラムがあったようです。ちなみに、祖母の妹が高女に通っていた頃は、英語は敵国語として禁止されていたそうです。

 


木造駅舎で列車を待つ学生。開設以来、この光景があった(2004年撮影)

 

 

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