築町(ちくまち) その2

 

大牟田の地名研究の先駆者である福井健夫さんは「このまちは、鉄道の受入れ態勢の一つとして、新たに築き立てられたので築町という呼び名になった。しかし、「つきまち」と読むのが正しい」との説を立てられています。三池港も築港と呼ばれることもあるので、築町も人の手で創られたまちという意味なのでしょう。また、長崎の出島付近にも築町(つきまち)というまちがありますし、東京にも築地(つきじ)という地名があることからも「つきまち」説はかなり有力と思えます。

しかし、小生はそのままでいいと思います。

現在も築町近辺に金融機関が多くあることも、中心街として発展してきた証であります。北から、西日本シティ銀行、福岡銀行、三井住友銀行、肥後銀行、筑邦銀行、過去には肥後相互銀行(熊本ファミリー銀行)、三和銀行、貯蓄銀行(戦前の話ですが・・・)などもありました。今の大牟田を見ると、カネは縁遠いように思ってしまいますが、昔は相当のカネが動いていたということでしょう。


かつては肥後銀行の建物だった江崎耳鼻科(隣は富士ビル)

築町のお店の思い出といえば、やはり金善堂書店です。今のような車で乗り付けられる本屋さんがなかった時代、金善堂は大牟田でもっともメジャーな書店でした。(小生にとっては、上官の麒麟書店、東新町の松山堂、新栄町の敷島書店が四大書店でした)残念ながら、2006518日、金善堂は明治24年からの115年の歴史に幕を閉じましたが、大牟田の歴史に残る商店であると確信しています。

今のコハマ楽器店のところにあった陣内三省堂薬局も老舗という雰囲気が漂っていました。銀座通りへと続く、道の全部を覆ったアーケードは、以前はここから始まっていました。

コハマ楽器は、かつては金善堂の並びにあり、うなぎの寝床のような細長い店でした。うちの母親は、30数年前、コハマ楽器の店内でかまやつひろしとバッタリ会い(その日は大牟田市民会館でコンサートだった)喜んでいました。

本サイトのレギュラー、下司哲哉さんに、富士レストランの貴重なお話をBBSに掲載していただきましたが、現在の富士ビルは昭和39年に建設されたものであり、なお、喫茶富士はそれ以前の木造の時代から築町の顔でした。晩年は三洋証券(倒産しましたが)、大同生命、設計事務所が入っていましたがもうビル全部が空いています。また、その隣の江崎耳鼻咽喉科(もう診察していないようです)は、昭和26年に建てられた肥後相互銀行(のちに隣地に移転)で、今見ても味のある鉄筋コンクリートの建物です。この2つの建物敷地にマンションが建つという噂もあるようです。

その他、銀座通りにある鷹島屋呉服店も戦前は築町にありましたし、バナナがぜいたく品だった時代、荒木泉商店(今のフルーツ荒木)にもあこがれておりました。

 

幼少の頃から慣れ親しんだ「ちくまち」はいい響きです。そう呼びなれているからでしょうが、「つきまち」でなくてよかったと思います。

松屋や映画館に行くために築町でバスを降り、わくわくしながら線路を渡った思い出は生涯忘れることはないでしょう。これからの築町の再興にも注目していきたいと思います。(2006.5.31


金善堂前に着いたバス()と閉店を知らせるビラ

 

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