築町(ちくまち) その1
大牟田の中心部の昔からの商店街は苦戦が続いています。その中でも、・・・銀座、新
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藩営で石炭を採掘していた時代は、鷹取山の坑口から大牟田川(今の線路が渡っている付近)まで石炭を運び、そこから舟に載せていました。だから、この辺りは、昔から川沿いに集落が形成されていました。
明治時代になると、大牟田町役場は今も残る旧
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現在の五月橋を挟んで南北にまちが広がるのは、明治24年に鉄道が敷かれてからです。同時期に炭鉱が三井経営となり、大牟田のまちは飛躍的に発展することになります。
九州鉄道
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明治末期、手狭になった大牟田駅が現在地に移転します。(大牟田駅の移転は明治42年説と44年説がありますが、20世紀の話ですらはっきりしないことには驚きます)
ここで、さらにまちが南北に伸びます。大牟田町役場が今の市役所の場所に移転し、警察署や郵便局が駅前にできます。もとより、大牟田は産業都市として順調に発展していたので、繁華街も拡大する一途で、築町もさびれることはありませんでした。
ただし、やや視野を広げて見れば、三池のまちの賑わいは、大牟田に奪われていきました。九州鉄道の当初案では、線路を三池のほうに敷く青写真もありましたが、残念ながらこれは実現せず、税務署などの官公庁も次第に大牟田のほうに移転していきます。
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昭和2年、四山・
国道と銀座通りはT字の形をなし、築町はその結節点にあたります。昭和生まれの
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