学校の宝物

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昭和9年に造られた明治小の滑り台

 

明治小学校のグラウンドにある石の滑り台が、同校の100周年を機に記念碑とされた。(創立記念日の200665日にメモリアルプレートの除幕式挙行)このような身近なものに対し、価値を見出すことはかなり難しい。しかし、明治小学校関係者諸兄は、見事にこの取り組みをされた。新鮮な感覚で身の回りを見直された結果であろう。

明治小学校の諸兄を範とし、学校をボーっとしか見ていない頭に喝を入れ、大牟田市内の学校の宝物を研究してみた。

コンクリート製滑り台

 

石の滑り台は、正確には「鉄筋コンクリート製 研ぎ出し仕上げ」と建築界では呼んでいるものである。この仕上げは、ステンレス流し台が出る前、昭和30年代頃まで流しに使われていたやり方である。

コンクリート製の滑り台は、明治小学校だけでなく、他の小学校にも残っている。いずれも2レーンが並列になっているタイプのものである。

駛馬北小学校と玉川小学校の滑り台は、鋼管の手すりが取り付けられている。デザインは若干異なっているところからは、専用設計と推測される。

また、みなと小学校と中友小学校には、コンクリート製の階段手すりのタイプのものがある。上り口の手すり壁の形状が異なるが、デザインは良く似ている。中友小学校の滑り台にはキリンの擬装がされていて、遊び心満点である。なお、みなと小学校のものには、三川小学校時代に取り付けられた『創立貮拾五週年記念 昭和参拾参年拾壱月参拾日』のプレートが埋め込まれている。これらの滑り台は、昭和30年代(40年代初め頃まで)に造られたと思われる。

天道小学校の敷地の段差を利用して設置されている滑り台も面白い。これも昭和40年代には既にあった。これだけ階段の幅があるのだから、あと5レーンくらい増やしてもいいのではないだろうか。


駛馬北小


玉川小


みなと小


中友小


天道小

以上、いずれの滑り台も佳作であり、学校の宝物と呼ぶにふさわしい逸品である。

さて、上述した滑り台と比較しても、明治小学校の滑り台はデザイン、存置期間も卓越しており、別格であることがわかる。できれば是非現役で使っていただきたいと思うのだが、コンクリートは恒久構造ではないので、危険であれば仕方がない。モニュメントとしての第二の人生でも、子ども達を見守っていて欲しい。

 

《余談》


延命公園の滑り台(昭和42年撮影)

学校とは関係ないが、硬派の名を欲しいまました建造物、今はなき延命公園の滑り台について記述しておく。

延命公園の野外音楽堂と青年の家の間に長い階段があるが、かつてはここに長い滑り台があった。現在、ローラースライダーなどという軟派な滑り台がはびこり、滑りやすさを武器に緩い勾配で長い距離を滑ることができるようになったが、延命公園の滑り台は「急勾配で長い距離」と恐ろしく硬派であった。(右の写真は半分も写っていない。中間には踊り場があった。)

ローラースライダーやステンレス製滑り台と違って摩擦力が大きいので、スピードは出てなくても尻が熱くなりズボンもテカテカ。子ども達は尻にダンボールの切れ端を敷いて滑っていた。当時の滑り台遊びの定番といえば、仰向けに寝て頭から滑る「サンダーバード2号出動ごっこ」であったが、延命公園の滑り台でバージルになりたいと思う子どもはいなかっただろう。知らないうちになくなっていた、という感じではあるが、周囲の人からの思い出話によれば、昭和50年前後に撤去されたことが推測される。

この硬派を極めた滑り台の記録を見ることはないが、小生と同世代の方(とシニアの方)は鮮明に記憶されていることだろう。市民の次に編纂される大牟田市史(生活編)への掲載を強く希望する。

土俵

 

上内小学校とみなと小学校に四本柱の土俵が残っている。相撲の土俵は戦前から設置されていた学校もあるようだが、建てられたのは、いずれも昭和30年前後と推測される。

上内小学校の土俵はもともと敷地の南側にあり、2回ほど移築したことがうかがわれる。1回目は昭和40年代に数メートル西に移動、2回目は校舎の建替えにより敷地の北側に移築された。以前は、市内の小学校(三池、銀水、高取、笹林、明治、中友、大正、笹原、玉川など。中学校では橘。)に土俵があったが、校舎の建替えによる配置替えや老朽化等により撤去されている。上内小学校では、土俵は大切に扱われ、今日まで適切に管理されている。しかも学校行事として相撲大会が開催されているとのこと。ハード、ソフト両面そろった立派な宝物である。

みなと小学校の土俵は、土が掘られていたりして荒れているが、上内の土俵より屋根勾配がきつく入母屋のデザインが引き立っている。きちんと整備すれば完璧な土俵となるだろう。

なお、現在、大相撲は吊り屋根となっているが、もともとは四本柱だった。観客に見やすくするために柱が撤去されたが「四本柱の屋根」が江戸時代以来の正しい土俵の姿である。ただ、柱があると土俵から転げ落ちてぶつかり、大相撲でも怪我が多かったそうだ。(頭を強打して死に至ることもあった)5、6年生を過ごした銀水小学校の相撲大会では、普段、相撲をとっていた四本柱の土俵は使わずに、運動場に円を描いた「安全な土俵」での開催だった。

ともあれ、サッカー、野球、カーリング()などの人気スポーツをやるのもいいが、日本男児であれば、裸で正々堂々とぶつかり合う国技たる相撲も、きちんと経験してもらいたい。


みなと小の土俵


上内小の土俵

 

 

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