文化都市の路面電車

U.路面電車の休止

 

終戦後も、大牟田の路面電車は庶民を運び、まちの復興に貢献しました。

戦災復興土地区画整理事業が昭和21年に決定し、焼け野原となったまちの整備が進められることとなりました。路面電車は、現在の旭町ガーデンホテル前から五月橋を通り、現在の大牟田文化会館付近まで、旧県道(現在の国道208号線)を走っていましたが、この区間は区画整理の区域に入っており、道路整備が行われました。


その主な内容は

1.    旭町から五月橋にかけての区間、有明町交差点北側付近などの不整形な線形を整える

2.    五月橋を架け替える

3.    道路幅を従前の6間(11m弱)から40mに拡幅する

というものでした。

もともとこの計画は、路面電車が道路内を走ることを前提に、五月橋を架け替え、40mの幅員を確保することとされました。

大牟田の路面電車は、開業当初より単線で、五月橋、駅前、諏訪神社前、三里、発電所前などの電停で離合待ちをしていました。円滑な運行のためには複線化が必要でした。また旧県道の線形を整える場合、両側に均等な拡幅とはならない(場所によってはほとんどが片側への拡幅となる)ため、軌道は中央部分への移設が必要でした。すなわち、昭和21年当時の計画では、区画整理とあわせ、路面電車の軌道を道路中央に敷設し複線化することが盛り込まれていたのです。

大牟田では戦前から鉱害が発生しており、市の中心部は広範囲にかけて地盤が沈下していました。堂面川や長溝川は流れなくなり、新河川が築造されました。市街地の水はけも悪くなり大きな冠水もたびたび発生しました。鉱害は鉱業権を持つ企業等が賠償責任を負いますが、国鉄鹿児島本線も西鉄大牟田線も列車運行を継続させるため、現在の白光中学校との高低差に見られるように、線路のかさ上げ工事を行っていました。戦災復興土地区画整理事業では、工事に伴う残土処分が必要でしたが、大牟田ではこのような鉱害の改善のために残土が使われていました。



戦災復興土地区画整理事業の五月橋の架替工事

鉱害対策でかさ上げされた白光中西側の軌道

区画整理事業が進み、いよいよ軌道の付け替えが近づき、西鉄は大きな選択をしなければならなくなりました。

軌道の付替工事は区画整理の工事の中で行われますが、その後も鉱害対策を行いながら営業するか、区画整理の予定がなく道路拡幅が見込めない諏訪交差点以南の複線化をどうするか、乗合バスに切り替えて非効率な路面電車の運行はこれを機に廃止するか。炭鉱で大牟田市の人口が増えている中での、難しい判断でありました。

昭和26年、区画整理が行われている旭町・五月橋間の道路工事に伴い、この間の路面電車は廃止、終点は330m南側の三井銀行前に移設されました。これは、区画整理の中での「移設工事」と位置付けられていました。市の中心部の区画整理の工事はその後もスピードを緩めずに進められました。西鉄は区画整理に追われるような形で路面電車の「休止」を決定し、昭和271月、大牟田の路面電車は全線休止となりました。その後しばらく、大牟田市の人口は増え続けましたが、路面電車は「休止」から復活することなく、昭和293月に全線廃止となりました。

 

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