文化都市の路面電車

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わが国の路面電車は、明治28年、京都市で初めて走りました。以後、大正から昭和初期にかけて、都市において整備が進められました。路面電車は、近代国家となったわが国の都市活動を支え、戦後の都市の復興にも大きな役割を果たした交通基盤でした。

炭鉱の発展により都市化が進んだ大牟田でも、大正中期になると路面電車整備の機運が高まり、大正11年、大牟田電気軌道が設立されました。そして、昭和212月、大牟田市旭町と三池郡三川町の間で路面電車の運行が始まりました。

当時のまちの状況を見てみますと、大牟田側では、藩営炭山時代からの形成されていた五月橋周辺の市街地が鉄道の開通とともに南に広がり、旭町から不知火町にかけての一帯が商業、経済の中心となっていました。

一方、三川町方面は、明治末期の築港とともに市街化が進み、大正13年に四山坑の採炭が始まると、大規模な社宅が整備され、県境付近は20年前には想像もつかなかった繁華街となりました。

しかし、大牟田と三川の市街地は連なっておらず、その間は閑散としていました。庶民が三川から大牟田に行くためには、2km弱離れた荒尾駅から汽車に乗るか、3kmほどの道のりを歩くしかありませんでした。そこに路面電車が登場しました。両市街地が軌道で結ばれ、庶民の移動の利便性は一気に向上しました。大牟田は産業面においては近代化の最先端を走っていましたが、路面電車の開通は、庶民が日常生活というレベルで近代化を肌で感じた出来事でした。路面電車で距離が縮まった大牟田市三川町は、その後、合併へと進んでいきます。


有明新報によると、平成23(2011)212日、三池高校で講演された東京大学名誉教授の松尾浩也さん(荒尾市出身)は、講演の導入部分で「市内電車の走る大牟田は荒尾から見ると光り輝く文化都市」と評されています。同じようなことを岱明町に住んでいた祖母も言っておりました。当時、路面電車は都市の象徴であり、郡部の人々は路面電車が走るまちを、憧憬の念を抱いて見ていました。

 

 

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