栄町物語

T.工場のまち

 


紡績工場全景


紡績工場遠景(大正期 笹林公園より)

1873年(明治6年)、三池炭鉱は官営となり、大牟田のまちが徐々に発展していきます。しかし、炭鉱が三井経営となる以前、泉町から五月橋、大牟田神社付近の大牟田川沿いに集落が形成されていましたが、現在の旭町や明治町は未開発の地でありました。運炭も馬鉄で行われており、のどかな風景が広がっていました。

栄町地区は明治前半頃まで、長溝川と大牟田川に挟まれた旧横須村の湿地帯の一部でした。それが、三井の大牟田進出と時を同じくして、大規模な紡績工場へと変貌を遂げることになります。

1888年(明治21年)、日本政府は官営であった三池炭山を民間に払い下げることを決定しました。地元の経済人は、官営の炭山が一民間企業の経営となると、その利益を全て独占されてしまい、地元には何も残らないと危惧しました。そして、地元の財力を結集し、三池炭山に応札しようということになりました。結局、この努力は、三井が落札したため、実りませんでしたが、せっかく結集させた地元のエネルギーを他の産業に投入してはどうかということになりました。そこで、画策されたのが、石炭産業同様、我が国の近代化をけん引した紡績の起業でした。

1889年(明治22年)、旧柳河藩士、旧三池藩士、地元の富裕の農商により三池紡績会社が設立されました。当初、工場は旧高田町の江の浦に建設することも検討されましたが、原料となる綿花の輸入に利のある、石炭の積み出しの港がある大牟田川から近い、現在の新栄町地区が工場建設地に決定されました。

1891年(明治24年)、三池紡績の工場が稼動します。伊田坑の煙突も顔負けの双子の煙突が工場のシンボルでした。操業当初、三池紡績は良好な経営でした。しかし、日清戦争(明治2728年)が終わると、我が国の経済は低迷し、不景気は様々な産業に波及しました。全国各地にあった綿糸紡績産業は1896年(明治29年)頃より、合併が進みました。経営が悪化した三池紡績も1898年(明治31年)に、同じく厳しい経営となっていた久留米紡績、熊本紡績と合併し、九州紡績(本社は三池)となります。九州紡績となっても経営は改善せず、株価は暴落に暴落を重ねました。さらに、1900年・1901年(明治33年・34年)の恐慌は綿糸紡績産業の集中化を加速させ、1902年(明治35年)、九州紡績も鐘淵紡績(後のカネボウ)に吸収されてしまいます。紡績工場は「鐘紡三池工場」となり、生産を続けました。

大正期になると、工場のある一帯は、明治町と呼ばれるようになります。大牟田には明治町のほか、大正町昭和町と元号が名称に用いられた町がありますが、それぞれの町が造られた時代を表しています。

 

テキスト ボックス: 賣勘場テキスト ボックス: 明治町壹丁目
大正後期の地図

テキスト ボックス: 三池商事テキスト ボックス: 三西容器テキスト ボックス: 西鉄栄町駅
昭和40年代初め頃の地図

 

太平洋戦争が始まると、紡績工場は原料の輸入に窮することになります。1942年(昭和17年)、鐘紡三池工場は持ちこたえることができなくなり、閉鎖されてしまいます。翌年、軍需会社として業績を伸ばしてきた三井化学工業鰍ェ紡績工場を買収します。それから間もなく、大牟田のまちは、5回の空襲(昭和1911月から昭和2087日まで)を受け、生産機能は完全に停止します。そして、終戦を迎えることになります。

三井化学工業竃セ治町工場も戦災で機能は停止しました。しかし、煉瓦造の建物は焼夷弾攻撃でも焼け残り、中には新栄町が造成されるまで壊されなかったものもありました。戦後、生産施設は戦前の規模までは戻されませんでしたが、広い敷地は、三井化学の子会社である三西容器の工場、グラウンド、そして三井化学の生協(三西ストアの前身。巷では『染料の売店』と呼ばれていました)として使われていました。

 

 

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