島原航路のこと
B 島原航路の船舶
明治以降の使用船舶の流れは、移動需要の増加への対応のため船舶を大型化して大量輸送、それに伴い、帆船から汽船へ。客数が減少してくると、輸送効率の向上のために小型化して速度が上げられた。
島原港路で確認できた船舶をまとめると、下表のとおりである。
船舶名 |
総トン数 |
定員 |
備考 |
昭和27年 大牟田−島原 |
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島原観光汽船 |
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松寿丸 |
95.0トン |
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春日丸 |
89.8トン |
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神懸丸 |
70.5トン |
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昭和29年 大牟田−島原 |
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島原観光汽船 |
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松寿丸 |
95.0トン |
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升金丸 |
134.8トン |
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絹笠丸 |
145.16トン |
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昭和32年 大牟田−島原 |
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島原観光汽船 |
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旭丸 |
63トン |
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松寿丸 |
95トン |
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升金丸 |
136トン |
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絹笠丸 |
146トン |
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昭和34年 大牟田−島原 長洲−島原 |
島原観光汽船 |
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旭丸 |
63トン |
111人 |
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松寿丸 |
94トン |
179人 |
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升金丸 |
134トン |
134人 |
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絹笠丸 |
145トン |
231人 |
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平成9年 |
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島原鉄道 |
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オーシャンライナー11 |
19.0トン |
66人 |
FRP製・全長17.0m・主機関600馬力×2基・航海速力22ノット |
平成10年 |
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島原鉄道 |
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島鉄1号 |
19.0トン |
76人 |
双胴型・全長21.0m・主機関825馬力×2基・最高速力40ノット・航海速力34ノット・総工費1.6億円 |
島鉄2号 |
19.0トン |
66人 |
オーシャンライナー11を改称(平成26年廃止) |
○
昭和20から30年代頃まで、三池港・島原港間は1時間50分を要していた。
○
昭和45年の大牟田市の記録では、総排水量160〜174屯、定員300名の船舶が1日5回就航。所要時間は1時間20分となっている。
○
昭和56年の記録では、72t、160t、172tの船舶が1日6回往復している。昭和57年の記録では高速船2隻で運航している。なお、島原観光汽船時代には所要時間は50分まで短縮している。
○
島原観光汽船鰍フ末期に運航していた高速船の定員は96人であった。「しまばら」という船名の高速船があった。
○
平成9年8月11日、島鉄経営になって就航したのはFRP製のオーシャンライナー11。従来どおり、島原まで50分、1日6往復で航行した。この船は島鉄1号が就航した後は、島鉄2号となり、主に貸切に使われる予備船となった。当時の運賃は、大人片道1,730円、往復3,120円。
○
島鉄就航1年を記念して平成10年8月11日、島原1号が就航した。この船の機関は825馬力を2基搭載しているが、これは500トン級の小型フェリーに匹敵するものである。40ノットという速力は、北朝鮮の工作船と勝負ができる。島鉄1号の就航で所要時間は35分に短縮するとなっていたが、時刻表上は50分間で、変わりがなかった。実際に乗ってみるとわかるが、出航してから40分程度で到着する。港内で速力を落としていることを差し引けば、30ノット前後で航行している計算になる。
○
島鉄2号は平成26年3月まで使用されている。運賃は大人片道1,870円(小人940円)、往復3,560円(同1,790円)
○
平成26年4月、収益悪化及び消費税増税により運賃改定。大人片道2,300円(小人1,150円)、往復4,370円(同2,190円)。往復5便から4便に減便。
【個人のホームページからの情報】※当研究室では根拠となる文献等は未確認
○
『芸予少年』(http://www9.plala.or.jp/moeru-otoko/fune/gr/miharakankokisen/miharakankokisen.htm)によると島原観光汽船はガルーダ3号という高速船を所有していたとのこと。
【140302追補】
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『炭鉱電車が走った頃』ed731003さんからの情報提供(有明望嶽庵掲示板)
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島原航路について -
ed731003
2014/03/02 (Sun) 17:44:07
こんにちは〜お久しぶりの投稿です。
「島原航路の研究」面白く読ませていただきました。少しばかり、三池港開港時から戦前まで島原航路の情報をお伝えします。
開港時頃は三四組(大牟田市三川町)所有の新回漕丸が、三池港、長洲、島原、口之津を結んでいたようです。明治43年11月から升金八代屋回漕店(島原の松尾栄一所有、屋号は升金)の升金丸と九州汽船(本店長崎玉井町)の錦江丸の2隻が同じ航路を引継ました。当時の乗客は、口之津在住の三井船舶の船員家族が中心だったようです。船着き場は、船渠東南側の旧船渠事務所付近にありました。また、当時この2社は競合して乗客の争奪合戦をしたようで、大正3年に升金が三池〜島原を、九州汽船が島原〜三角をそれぞれ独占することで競争に終止符がうたれたらしいです。ご存じのように、升金は後の「島原観光汽船」ですし、九州汽船は後の「九州商船」です。
船着き場に関しては、大正9年に内港南防波堤に新たに昇降の石段を設置したと記録がありますが(三池港務所沿革史)、当時は伝馬船で内港中央に碇泊している船まで行ってたようです。内港に桟橋ができたのは、大正14年の事のようです。
なお、昭和14年の渡海船は、神懸丸、利潤丸、春日丸の3隻が就航していました。(内1隻は予備船)
島原から先の口之津までの航路廃止がいつかなどは不明です。三池港への発着回数は、1回の時代もあったようですが、戦前はほぼ2回であったようです。
以上、参考となれば幸いです。
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