島原航路のこと

@ 島原航路のあけぼの

 

大牟田発着の航路は、江戸時代から存在していた。石炭採掘が藩営で行われていた頃、生山、鷹取山等で採掘された石炭は、大牟田川の五月橋付近まで運ばれ、そこから団平船と呼ばれる小型の帆船に積まれた。団平船の石炭は島原半島の南端、口之津で大型船に積み替えられ、各地に運ばれていた。

一方、島原市は、江戸時代に島原藩が置かれて以来、城下町として発展してきた島原半島の中心都市である。藩主の公称の石高は、松平家の時代で6.5万石、戸田家で7.7万石であり、地元では『島原7万石』と言われている。そのころより海運が発達しており、島原は遊郭もあるような港町でもあった。

大牟田から口之津までの航路は島原を通ることになる。当時寒村であった大牟田からすれば、「都市」の島原は憧れであった。石炭を運ぶことができれば人を運ぶこともできる。

大牟田と島原を結ぶ旅客航路は、明治28年、個人経営で始まったと言われているが、このような世情から、『定期』ではなくても、江戸時代から「貨物」航路を使った旅客は存在していたと考えられる。

 


金比羅山より見た橋口橋付近。帆柱付きの団平船が係留されている。切妻屋根白壁の家屋の場所に現在の築町公園公衆トイレ、手前の丸太が転がっているあたりが五月橋(架設中か?)。明治24年以前の画像で鉄道は見当たらない。


島原港の付近を航行する運搬船。島原は口之津と並ぶ有明海の海運の拠点であった。

 

さて、三池炭鉱は明治24年に官営から三井経営となり、飛躍的な発展を遂げることとなる。大牟田はゴールドラッシュならぬコールラッシュとなり人が集まる。人が集まるので商売の機会も増える。

また、同じ明治24年に九州鉄道の大牟田駅が開業する。この時点で島原も鉄道が身近になる。長崎本線が島原から40km離れた諫早まで開通するのが明治31年、島原鉄道が島原まで開通するのは大正2年。島原鉄道が開業し、長崎圏内、佐賀西部には近くなったが、佐賀より東は航路で有明海を渡り、大牟田で乗換えたほうが早い。さらに、昭和13年には九州鉄道(現西鉄)が大牟田市内に乗り入れ、福岡との結びつきが強まる。

三池港・大牟田駅間のバスは昭和の初め頃には既に運行されており、三川町通りまで出れば市内電車(昭和2年開業)もある。一方、島原鉄道でも大正2年、島原港(内港)前に湊新地駅(現在の島原南駅)が設置され、外港の整備、船着場の移転に合わせ昭和35年、島原外港駅が新設される。

大牟田、島原双方で交通結節機能が強化され、島原航路は発展を遂げる。

 


西鉄大牟田駅(西口)バス乗場に掲げられた看板「近道は海にある」。西鉄電車の待ち時間が少なくなるようダイヤが組まれている


島原側では島原鉄道鰍フバスとともに鉄道との連絡が図られた

 

なお、島原港−大牟田−福岡(天神)は、在来線の特急つばめがあった時代に最短2時間、平成26年現在では西鉄特急利用で2時間10分となっている。

当研究室の現地実証検分によると、有明海沿岸道路と新幹線の活用により、島原港−三池港−<沿岸道路・タクシー>−新大牟田−<新幹線>−博多で、最短1時間35分となる。対して、島原駅−諫早−博多は、島鉄の急行、JRの特急かもめを乗り継いで最短2時間32分。昭和27年の島原から各地への所要時間、運賃は下表のとおりであるが、現在に至るまで、大牟田経由の時間的な優位は変わっていない。

 

島原から各地への距離・所要時間・運賃(昭和27年)

行先

距離

所要時間

運賃

大牟田(航路)

34

1時間50

140

柳河(大牟田航路経由)

57.9

2時間20

200

久留米(大牟田航路経由)

67.6

2時間40

230

久留米(島鉄・国鉄経由)

149.9

6時間50

320

福岡(大牟田航路経由)

105.5

3時間30

300

福岡(島鉄・国鉄経由)

172.1

7時間30

360

長崎(島鉄・国鉄経由)

73.9

2時間40

180

※ 島鉄・国鉄経由は島原港発

※ 当時の物価:封書10円、はがき5円、国鉄最低料金10円、煙草ピース(10本入)40円、森永ミルクキャラメル20円、豆腐1丁10円、大人公衆浴場入浴料12円、公務員初任給6,500

 

140303追補】

大牟田市図書館所蔵の昭和初期の地図(昭和4年頃)によると、当時、三池港から島原半島行きは口之津までの航路であった。同地図に下記の時刻表が掲載されている。

三池口ノ津間定期汽船發着表 八代屋廻送店扱()

出帆港

出帆時

寄港地

着港地

着港時

三池

前十一時半

長洲 島原 枯木 深江 布津 堂崎 小川 須川 裏田 大江 吉川

口ノ津

后五時

三池

后三時

長洲

島原

后五時

口ノ津

前六時

吉川 大江 裏田 須川 小川 堂崎 布津 深江 枯木 島原 長洲

三池

前十時半

島原

前六時

長洲

三池

后三時

「八代屋廻送店」(※正しくは八代屋廻漕店)の詳細については本研究「B 島原航路の船舶」追補のed731003さんの情報以上の調査はできていないが、同地図によると三川町通りの三川町4丁目付近に店舗(事務所)が記載されている。

この地図には「定期自動車系路表」も掲載されており、既に大牟田駅−築港の乗合自動車の運行されていることが伺える。ルートは三川町通りを南下し、三川町五丁目交差点から西に曲がって浪花町方面に入り、早米来ガードをくぐって渡船場に至るというものであった。

当時の築港線の乗合自動車の運行は金子小三郎氏が免許を受けていた。昭和初期までの乗合自動車の制度では、個人にも許可が出ており全国各地で事業者が乱立していた。その後、乗合自動車事業の集約化が行われる中で、免許の売買が行われた。「西日本鉄道百年史」によれば、後に西鉄に吸収合併される大牟田電気軌道が、昭和10829日、飯田環氏(金子小三郎氏は免許を手放していたと思われる)より大牟田駅−三里町、三池港内の免許を譲り受けている。

なお、浪花町・早米来ガード経由で築港桟橋バス停に至るルートは、乗合自動車の大型化に伴い、早米来ガードをくぐれなくなり、昭和30年頃に四山、大島を経由するルートに変更されている。

 

 

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