松屋の倒産
1980年代中頃から郊外型大型量販店という新しい商業の風が巻き起こりました。これは、もはや贅沢品でなくなった自動車、いわゆるモータリゼーションに着目した商業の展開でした。
大牟田・荒尾地区では1980年代半ばから後半にかけてニコニコドー(Big Way)、オサダなどが次々と建てられ、商業の競争は激化しました。
松屋は老舗として地域に定着したブランド感を武器に闘いました。1985年(昭和60年)には総工費6億円とも言われる店舗改装工事を行いました。
1981年(昭和56年)をピークに下落傾向にあった売り上げは、バブル景気の後押しを受けて91億46百万円(1992年(平成4年)2月決算)まで回復しました。
この頃、古さが目立ってきた松屋周辺地区のリニューアルが検討されていました。
これはコミュニティマート構想と呼ばれていましたが、その中に松屋の西側の敷地を再開発し、ダイエーをキーテナントとするショッピングセンターを建設するという青写真が描かれていました。
松屋はダイエーまるまつや福岡のショッパーズ・ダイエー(資産の一部をリース)の関係からダイエーとのコネクションがありました。この再開発で大規模な駐車場を確保し、福岡のようなマツヤレディース-ショッパーズという商業核を形成することを目論んでいました。
ところが、バブル景気の崩壊によりダイエーに大きな試練を背負うことになりました。ダイエーは九州地区においては、1981年(昭和56年)にユニードと合併していましたが、それまでライバル店だった関係上、ダイエーとユニードの店舗は競合して立地していました。
1994年、完全にユニードを吸収したダイエーは、この非効率な店舗の整理を迫られます。大牟田でも1994年にダイエーまるまつが閉店し、翌年には新
経営再建を余儀なくされたダイエーは松屋西地区の再開発計画から離脱を表明し、同時にこの計画は白紙に戻ることになりました。
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1997年(平成9年)、地元の商業者に衝撃のニュースが伝わりました。東
同年3月にリニューアル工事が完了したばかりの松屋ですが、2倍以上の売り場面積となるゆめタウンには対抗できないことは明白でした。
この年、松屋西地区の再開発計画は、松屋を核とした再開発計画(
この再開発計画はゆめタウンの開店に対抗できるよう、急ピッチで進められました。再開発ビルの管理運営を行う㈱タウンマネジメント大牟田(第三セクター)も
市の保証がない状態での事業に対する融資の獲得は困難を極めました。不良債権で悩む市中の銀行は、公的融資である中小企業総合事業団の認定がないことには融資できないという姿勢を崩しませんでした。
2001年開店のゆめタウン(左)と閉店した井筒屋 |
しかし、関係者の努力は実らず、㈱タウンマネジメント大牟田は公的融資を獲得することはできませんでした。2000年(平成12年)11月、再開発計画は頓挫してしまいました。
ゆめタウンの開店を前にした2001年(平成13年)1月、松屋のライバル店であった大牟田井筒屋は30年の歴史に終止符を打ちました。そして、新しくオープンするゆめタウン大牟田のテナントとして入ることとなったのです。
同年10月19日、ゆめタウン大牟田が開業し、松屋は大きな打撃を受けることになります。
2002年(平成14年)1月15日、松屋は福岡地裁に民事再生手続き開始を申請しました。
既に親会社の㈱福岡松屋も天神地区の商業中心の南下により経営難に陥っていました。(福岡松屋は同年10月28日破産宣告、倒産となった)松屋は福岡松屋から資金注入を受けていましたが、親会社にも余力は全くなく、自力で再生していかなければなりませんでした。
松屋の危機を救おうと、大牟田の商業界は1口1万円の市民スポンサーを募集しました。その結果、1億3千万円を集めることができました。
これが当面の運転資金にはなりましたが、『大牟田に松屋がないと寂しい』という市民の思いと実際の消費行動は別物でした。
2004年(平成16年)7月2日、松屋は民事再生を廃止し、突然閉店しました。社員に閉店が知らされたのも当日でした。
炭都・大牟田で開店して24,362日目のことでした。
松屋は中元商戦どころか閉店セールもできないほど体力は衰えていました。2004年2月期決算は35億84百万円でした。
民事再生手続開始を知らせる看板(H.14.1.16) |
閉店を知らせる文書(H.16.7.3) |
閉店した松屋から商品の引き上げが行われる(H.16.7.3) |
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