戦前・戦中の松屋

 

昭和12年の開店案内状(左)と銀座通りから見た松屋

もともと松屋は福岡市が発祥の地で、1911年(明治44年)10月創業の松屋呉服店からスタートしました。福岡市民から松屋のある通りを『松屋通り』と呼ばれるほど、呉服屋時代の松屋もシンボリックな商店でした。

 

1932年(昭和7年)に現在のマツヤレディスの場所に松屋百貨店を建設し、戦前の福岡市では玉屋、岩田屋とともに三大百貨店と呼ばれていました。(企業としての㈱福岡松屋は昭和10年に設立)

商都・博多でブランドを築いた松屋は炭都・大牟田に進出することになりました。

 

大牟田の松屋(㈱松屋)は1937年(昭和12年)1010大牟田市本町にオープンしました。

オープン当事は本館だけで、清水組(現・清水建設)の施工により建てられました。松屋は一般には6フロアと思われていますが、商品ストックや機械室が設置された地下と塔屋の2階があり、厳密には地下1階、地上8階の建物です。

当時、大牟田で鉄筋コンクリートの建物と言えば、企業の施設を除けば、市役所と商工会議所でした。

何と言っても松屋の特色は大牟田の大衆が出入りできる建物で初めてのエレベーターを備えているところでした。

栄町が開発される昭和40年代の半ばまでは『松屋でエレベーターに行ってエレベーターに乗ってきた』という会話が聞かれていました。

 

さて、松屋がオープンする3ヶ月前、盧溝橋事件が発生し泥沼の日中戦争へと発展しました。

当時のキャッチフレーズは『商賣殉國』で、戦時色を色濃く反映しています。

戦争が長引くと物資が不足し、生活必需品が切符制販売となり自由に売ることが禁止されます。

綿製品や酒や煙草などは国から許可された割当て量のみの販売となり、商品も容易に調達できなくなりました。戦争末期になると、松屋の4階以上は貸事務所として三井染料などが入っていました。

松屋は1945(昭和20)618日の空襲で炎上しました。その後の空襲でも焼夷弾攻撃を受けますが、幸い鉄筋コンクリート造であったため、姿だけは留めることができました。

辛うじて建物が残ったので、戦後、松屋はその資産を活かし大牟田の地で復活しました。もし松屋が木造であったら、本当に『殉國』していたかもしれません。

ともあれ、今日もまだ残っている松屋の本館は、大牟田の空襲の貴重な生き証人であります。

 


松屋の憲法・店訓(左)と昭和15年の広告(右)

 


開店間もない松屋(左)と空襲で被災した松屋(右)

 

 

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