見聞録
左の写真は、荒尾のイチボウ前の桜並木です。並行して走る旧電車通り(現在の自転車道路)にも桜が植えてあり、短い期間ではありますが、この道を通るのと清々しい気分になるのではないかと思います。次の写真は、四山の登り道(西原方面から)の桜並木です。ここは道幅も狭く、さながら桜のトンネルになります。
大牟田では延命公園と三池公園、甘木山公園が花見の会場として賑わいます。
さて、よくよく考えると、人生のうちで桜の季節を見るのはわずか70回程度。小生にしても、この季節を迎えるのはあと30回程度。
幕末の志士、雲井龍雄は『散る桜
残る桜も 散る桜』という辞世の句を詠みました。名句であります。でも、散る桜は散ったままではなく、次の歳も桜を咲かせてくれます。
再び花をさかせるために散ると思えば、桜も前を向いて散っていくことができるのではないでしょうか。
桜は人生のカウントダウンのカウンターでありますが、未来の可能性も含んでいると信じています。
今年の春も先輩が職場を去りました。そして、我が家の末娘は小学校に入学します。【040403】
#004 針尾無線塔
大正7年(1918年)から4年の歳月をかけて、帝国海軍により建設(大正11年完成)され、真珠湾攻撃決行の『ニイタカヤマノボレ一二〇八』を発信したことでも有名です。
高さは2本が135m、1本が137mで、当時の鉄筋コンクリート技術を結集して造られたと聞きました。確かに、100mを超える煙突が出現するのは4〜50年後でありますから、大正時代の技術力を考えれば相当優れていたと言ってよいでしょう。
太平洋戦争の時、九州北部の都市を爆撃するために大陸方面から進入する米軍の飛行機の絶好の飛行目標になったそうです。だから、このあたりでは、でかいばかりで何の役にも立たないことを『針尾の無線塔』と揶揄したと学生時代に聞きました。
無線塔としての役割は平成9年(1997年)に終えていますが、今でも海上保安庁の管理になっています。
工場地帯でなかったせいか、打ち放しの地肌は自然にくすんだ色合いで、航空障害対策用の紅白の標識塗装や航空障害灯が施されなかったことがこの無線塔を愛する人たちにとっての救いだったと思います。航空法の適用除外だったのでしょうね。【030825】
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#003 長崎の夜景
稲佐山は登山道路や展望台、ゴンドラが整備され、完全に観光地化されました。小生が住んでいた頃は、幅の狭い道路で、バスは途中までしか走っていませんでした。展望台も貧弱で、多くの観光客が一度に上れるものではなかったと思います。
でも、夜景はその頃からきれいでした。そして、一段と色鮮やかになっているようです。
長崎は坂が多く、まちの明かりは平地を走る電車どおりを中心線として、傾斜地を上って広がっています。立体感のある3Dの夜景が楽しめます。
長崎港の水面に映る明かりもきれいです。【030315】
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#002 旧長崎刑務所
大牟田・荒尾地区には三池炭鉱関連施設や三池紡績の施設など、大規模な煉瓦造がありましたが、そのほとんどが解体されてしまいました。小生の経験がありますが、土地利用の転換を考える時、往々にして保存は困難という結果となります。でも『何とかして保存できなかっただろうか』と後悔することも多いのです。
この煉瓦造は地域の財産であることは間違いありませんから、後悔しないように議論を尽くして欲しいと思います。
余談ですが、大牟田にあった三池集治監(現三池工業高校の場所)は明治16年に建てられたもので、五大監獄よりも古い監獄でしたが、今は外周の塀しか残っていません。【030125】
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#001 第一紡績葛繽B工場
大牟田・荒尾には三井関係でモルタル煉瓦を使った塀や小規模な建屋がありますが、このような大規模な建築物はこれだけではないでしょうか。
のこぎり屋根の赤煉瓦の工場は、近場では久留米の月星化成の工場、久留米・荒木のピラミッドの工場、
戦後間もない昭和22年(1947年)の建築で、建築基準法(昭和25年制定)の規制から逃れました。
中を見たことはありませんが、恐らく小屋組(鉄骨の補強が入る場合もある)や柱は木造と思われます。
文化財的な価値を語られたことはありませんが、小生のお気に入りの建築物です。【020907】
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