D南関で見た日本の曙

 


南関町の正勝寺

♪我は官軍 我が敵は 天地容れざる朝敵ぞ 敵の大将たる者は 古今無双の英雄で 之に従う兵は 共に剽悍決死の士・・・♪

分列行進曲として学徒出陣の際に演奏され、今も陸上自衛隊の観閲式などで使われている「抜刀隊」は、明治十年の役(都から見れば「西南」戦争)を題材とした歌である。

この内戦の初期、南関に有栖川宮熾仁親王もご宿営された政府軍の拠点があったことはあまりにも有名な話である。

本営は南関町役場の西隣、正勝寺。地図を広げると、山鹿から高瀬にかけての戦線に対し、扇の要の位置にあることがわかる。

山鹿の薩軍はここから一里余の板楠まで進軍する。もし、この本営が落ちていたなら、政府軍は大混乱に陥っていただろう。

高瀬の六里先、熊本城は薩軍に包囲され、援軍を待っている。政府軍兵士の緊張が伝わってくる一級の史跡である。

幼少の頃、親父に連れられて激戦地、田原坂によく行った。鉄馬に乗るようになり、山鹿、玉東、植木の戦場を一人で回った。

学校では「西南戦争は不平士族の乱」と習ったが、歴史的な意義はそれだけではない。西郷の死、そしてこの内戦の終結により明治維新が完成し、日本の近代化が急進する。

明治十年の役は我が国の歴史の大きな区切りであったことを自らの見聞により学んだ。

今でもその興味は尽きず、たまに南関の史跡を訪ねている。

蒸し暑い日のことだ。正勝寺にたたずんでいると、地図を持った若人が話しかけてきた。

「正勝寺の和尚さんですね。ボク、大学で近代史を専攻していて、西南戦争を調べています。ぜひ、お話を聞かせて下さい。」

「ワシはこの寺の和尚ではないが…。まあ、人違いは誰にでもあることだ。ワシも小坂明子麻原彰晃を間違っていたぞ。

それはそうと、明治十年の役の話は得意とするところだ。お望みどおり、ようく話を聞かせてあげよう。

明治六年、征韓論争に敗れた西郷は…。」

若人の勉学のために熱弁をふるった。終わった頃には、あたりは真っ暗になっていた。

「さあ、これからが史跡踏査の本番だ。

このお寺の裏山に城ノ原官軍墓地という墓所がある。これぞ正統派墓場といもいうべき最高の雰囲気だ。ここで野営して、明治十年の役を身体で学ぶがいい。

何だ、泣くほど嬉しいか。じゃあ、これから先は一人で行くんだぞ。」

この若人を官軍墓地に送り込み、鉄馬で帰路に着いた。

次の日、一晩で白髪になったという若人が官軍墓地から降りてきたという。

あんな怖いところによく一人で行ったものだ。だが今も、自ら見聞して学ぼうという若人がいるというのは至極喜ばしいことだ。

明るい未来を感じながら、望嶽庵和尚は今日も史跡めぐりに鉄馬を走らせるのであった。

【有明地域生活情報誌 クレバ59号(2014.08.05発行)掲載】

 



 


 

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