大牟田の鉄骨望楼の記録

大牟田市の消防署に鉄骨望楼が造られたのは昭和31年(1956年)の春でした。

それまでは、高さ13メートルの木造の望楼で市内を監視していました。この頃はまだ電話が普及していない時代であり、火災発見、通報は望楼からの監視で補っていましたが、この程度の望楼では不十分でした。

新しい鉄骨望楼は高さ31メートル、日出町の望楼(高さ24メートル)と合わせると、市内の面積の約4割(監視区域の人口は全人口の約6割)が監視できたといいます。

望楼は火災発見に威力を発揮し、昭和37年(1962年)には152件の火災のうち49件を望楼から発見しました。望楼からの火災発見は、火の手が上がってからしか確認できず、電話での通報に比べると損害は大きくなります。(火災専用電話通報の10坪の焼失面積に対し、望楼からの発見によるものは50坪でした。)

しかし、電話の便が悪い地区では、望楼からの火災発見が最後の頼みの綱でした。消防職員は日夜、緊張の糸を張り詰め望楼の監視台に立っていました。

 

昭和31年に建てられた望楼は、その後、改良を加えられています。

消防署の建替えに伴い、昭和34年頃、サイレンが望楼に移設されました。

また、消防職員の落下事故が発生したため、水平防護棚が下から2段目の位置に設置されました。

中段の防護棚の手摺は、ホースハンガーとして使われていましたが、これにも改良が加えられています。

このように望楼の姿は、時代によって若干異なっています。

 

消防署OBの方は望楼勤務を次のように語っておられました。

『とにかく冬の寒さはこたえましたね。登る前にストーブで体を十分に温めて、防寒着を着込んで行きますが、そんなものは何分ももちませんでした。その後は凍えて回廊を回っていましたよ。』

消防職員は猛暑や厳寒の中でも、鍛えられた精神力を以って緊張感を持続し、望楼から市民の生命と財産を守っていたのです。

また、この頃の大牟田市は『公害のまち』というレッテルが貼られていました。大気汚染も深刻で、光化学スモッグ警報も頻繁に発令されていました。大気汚染の高さ31mでの望楼勤務ものどや目の痛みに悩まされていました。

 

こんな話も聞いたこともあります。当時の消防隊員は、命綱なしで望楼の屋根に上ったり、回廊から水平に出ている旗竿にぶら下がったりしていたそうです。落ちたら確実に死ぬでしょう。今では考えられないことです。

 

昭和30年代に大きな成果を上げていた望楼勤務は、電話の普及に伴い、火災発見数が次第に減っていきました。昭和47年(1972年)には105件の火災のうちわずかに1件、翌48年(1973年)は125件の火災が起きましたが望楼からの発見はゼロでした。

そして、望楼勤務は昭和49年(1974年)5月末をもって打ち切られることになりました。

その後、望楼は消防隊員の訓練やホース干しに使われていましたが、昭和59年(1984年)に解体されてしまいました。

 

望楼が立っていた頃の消防署(昭和4911月)

鉄骨望楼の再現図(望楼の絵を描きました)

鉄骨望楼の再現モデル(望楼を作ってみました)

望楼完(市政だより昭和31 420日号)

望楼(市政だより昭和331120日号)

望楼(市政だより昭和341120日号)

 

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