真弓阪神対原巨人

〜 大牟田対決の足跡をたどる 〜

 

原辰徳氏は、言わずと知れた原貢さんの長男である。原氏と大牟田との縁は、お父さんの原貢さんが大牟田でご活躍されたことに尽きる。

原貢さんは、鳥栖工業を卒業された後、関西の大学を中退され大牟田に来られた。これまた東洋高圧に勤務されており、小生の親父の年齢の近い先輩だったとのこと。原貢さんは、東洋高圧大牟田の野球部に選手として入られた。東洋高圧大牟田は都市対抗に出場する強豪チームであった。当時、会社の就業規則も甘く、午後から延命球場で試合があるときなど、一般社員が仕事を切り上げて応援しに行ってもお咎めがなかったという。原貢さんのポジションは三塁手。親父の記憶では、原貢さんは選手としては大成せず、味方の応援席から辛辣な野次が飛ぶことも珍しくなかったそうだ。しかし、東圧野球部を辞められて、三池工業高校の監督に就任されると指導者として能力を発揮されることになる。

原貢さんは、もともと頭のいい方だそうで、当時の進学率からいっても、工業高校卒は、現在の大学の工学部卒に匹敵する。他の野球部員は総務部門に配置され、生産的な仕事はしていなかったそうだ。しかし、原貢さんは材料試験の仕事をされていたそうで、しっかりと専門知識を身につけられていたようだ。あるとき、親父は野球をやっている弟(つまり小生からすれば叔父)の三池工業への進学を原貢さんに相談した。すると原貢さんは「あんたの弟は頭はよかとかい。まずは、入試に受からないかんたい。三池工業は入試の点数ば8割以上取らないかん。(三池工業は難関校だった)頭ん悪かとボーンヘッドばかりして選手としても使い物にならん。」と言われたそうだ。聡明な(?)叔父は入試をパスし、三池工業の野球部に入部した。叔父は甲子園優勝の年の直前に卒業、ちょうど三池工業が強くなってきている時期で、原貢さんの鉄拳制裁が日常的に行われていたそうだ。

以上の話からも、原貢さんはその頃既に、野村ID野球と星野熱血野球の両方を併せた野球哲学を確立されていたと思われる。その父親が大学まで指導したのであるから、原氏の野球の教育環境は壮絶なものだったろう。

原氏は1958年(昭和33年)に誕生、原貢さんの奥さん(原辰徳氏のお母さん)の実家が八尻町の内田理髪店だったので、原一家はこの近辺の借家に住んでいた。借家が手狭になると、東洋高圧の龍湖瀬社宅に転居する。龍湖瀬社宅は1950年(昭和25年)頃に建てられた木造、共同風呂の社宅。幼年期の原辰徳氏は社宅周りの坂道を走っていたとのこと。原一家は原氏が小学校に進学するまで龍湖瀬社宅に住んでいて、原氏はここから平原小学校に通っている。社宅は売却されながらも数年前まで原形を留めていたが、今は当時の面影を残すものは石垣だけとなっている。


1966年(昭和41年)頃の龍湖瀬社宅


昭和3839年頃の住宅地図。『炭鉱町に咲いた原貢野球(澤宮優)』には真弓氏も同じ社宅に住んでいた旨の記述がある。(並びの「真弓さん」が真弓氏の家か否かは未確認)

原一家は原辰徳が小学校に入学して間もなく、東圧社宅の白川アパートに転居する。露天堀の西側に位置するこのアパートは、建設当時、マンション並みと言われる豪華な社宅であり、風呂付きの3LDK(当時は共同風呂が一般的)、リビングにはガスストーブ、備え付けのソファーがあった。また、屋外には子どもの野球には十分な広さの野球場、プール、高鉄棒などがあり、体力づくりに適した環境であった。原氏はここから白川小学校に通うが、今度は大間の中古住宅に原一家は転居することになる。原氏は7歳にして1年間に3校を渡り歩いた。原貢さんの東海大相模の監督就任に伴い、昭和4112月、大間の家からも転居していくことになる。


現在の旧龍湖瀬社宅跡地。少年時代、原氏はこの坂を駆け上っていた。


東洋高圧(現三井化学)の白川アパート。現在は空き家が目立つが、建設された昭和30年代後半は最先端の集合住宅だった。

原貢さん率いる東海大相模は活躍した。昭和5054日、三池工業の甲子園優勝10周年のイベントで東海大相模との試合が組まれた。原氏が高校2年生のときで、東海大相模は佐藤巧、津末英明などの強打者を擁し、直前の春の選抜では準優勝であった。小生も三池工対東海大相模の試合を延命球場に見に行ったが、そんな強豪を相手にして、試合になるのだろうかと思っていた。予想に反し、試合は僅差で東海大相模の勝利であった。試合の内容以上に、大牟田市民は東海大相模の華やかな応援に驚いた。東海大相模はなんとこの大牟田までブラスバンドも一緒に来ていて、「T・O・K・A・I」とプラカードを掲げた応援だった。ブラスバンドの演奏と黄色い声援に「おお、メジャー!」と思った。泥臭さが全くないスタープレイヤーの原氏にお似合いの応援だった。

原氏のプロでの活躍は、万人が知るところであり、ここで書く必要はない。原辰徳氏の球界での評を聞くに、見たとおりさわやかで、優しい、本当の紳士のようだ。それが選手としても監督としてもネックと言う人もいるが、常人が持ち合わせていないキャラクターを持っているということは素晴らしいと思う。今の巨人の野球は、各球団から一流選手を集め、確かに面白くないが、原辰徳氏は監督して手を抜かずに誠実に頑張っているだろう。その結果が13ゲームをひっくり返した2008年の優勝と確信している。

 

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