真弓阪神対原巨人
〜 大牟田対決の足跡をたどる
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真弓明信氏は、大牟田の隣町である
小学校3年生のときに大牟田に引っ越してきたとのことだから、1962年(昭和37年)から
真弓氏のお父さんは真弓射道(イリミチ)さん、姓名合わせて弓道を極めんとするような名前だった。真弓射道さんは東洋高圧の横須工場に勤務されていて、機械(旋盤)のお仕事をされていた。お住まいは、東洋高圧の米の山社宅。木造、共同風呂という大牟田ではどこにでもある社宅であった。真弓氏のお父さんは真弓氏が名門・柳川商業で野球をされていたことを大変誇らしく思われていたそうだ。真弓氏のお父さんが「息子は頑張ってくれている」とうれしそうな表情で話されていることを親父は記憶している。残念ながら既に他界されてはいるが、きっと冥界でも真弓氏の阪神の監督就任を喜ばれているに違いない。
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真弓氏が暮らした東洋高圧米の山社宅(昭和50年頃) |
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米の山社宅の住宅地図(昭和48〜49年頃) |
柳川商業野球部OB(真弓氏の先輩)の方の話では、「真弓氏は歴木中時代は陸上選手で、柳川商業には野球の特待生で入ったのではない。柳川商業は入学後も特待生試験を受けられた。身体能力の高い真弓氏は見事合格した。」とのことであった。
真弓氏が自転車で柳川商業に通っていたことは地元では伝説となっている。この「伝説」はよく聞いていたが事実は未確認である。米の山社宅には「最終バスに幽霊が出る」と言われていたバス路線があったものの、それほど交通の便はよくない。その点では、自転車という自己手段で通学することは納得できるが、なにせ柳川は遠い。実際に柳川から大牟田まで通勤している自転車好きの人がいることは事実ではあるが、当時の自転車の性能、悪路で真弓氏がそれをやっていたら本当にすごい。「だから真弓氏はプロ野球選手になれた」と言われても、万人が頷くことだろう。
柳川商業の名将福田精一監督(この方も
真弓氏はクラウンライターライオンズで俊足巧打の遊撃手として才能を開花させた。その後、阪神に移籍し、1983年(昭和58年)、首位打者に輝いた。このときは、1塁走塁が不利な右打者で、しかもファールグラウンドが広く打ち損じが許されない甲子園を本拠地とした阪神で、よくぞ首位打者を獲得したものだと驚いた。(後に足の遅い今岡が首位打者となったときはその10倍驚いた)
1985年(昭和60年)の阪神優勝のときは3割30本、バース、掛布、岡田とともに凄まじい活躍をした。真弓氏のホームランを何回もスタンドで見たが、アーチ系の打球ではなく、滞空時間の短い、スタンドに突き刺さるような鋭い打球であった。
さて、真弓氏の大牟田の実家は米の山社宅から1975年(昭和50年)頃、歴木中学校近くの戸建て住宅に移転された。真弓氏もご両親が住まれている大牟田に時々帰省していたようで、近くで、真弓氏を見たという人もいた。しかし、当時、真弓氏の家が大牟田に(歴木に)あることはそれほど知られていなかったと思う。その話をしても「へぇ〜」と言われて終わっていた。
10年くらい前、ご両親は歴木の家から真弓氏が住む神戸に転居された。その頃、真弓氏が青春を過ごした米の山社宅も解体された。真弓氏は大牟田とも縁遠くなったが、昨年は、地方局の仕事で大牟田のまちに来ている。たまにはこのまちのことを思い出してほしいものだ。
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現在の米の山社宅跡地。白い軽自動車付近に真弓氏は住んでいた。社宅の通りは真っ直ぐに三池山に向いており、郷土を感じる景となっている。 |
我が福岡憲史会が応援する川口憲史氏(楽天イーグルス外野手)から聞いた真弓氏の話を紹介しておく。川口氏は真弓氏の後輩で柳川高校の出身、近鉄時代は真弓コーチの下で精進している。「僕が高校のとき、真弓さんが訪ねてこられて、野球部員が並んで出迎えました。いや〜、男前でしたね。近鉄のコーチをされているときは、選手に『なにやってんだ。はやくしろ!』と粋に檄を飛ばされていました。でも、僕と話すときは『なんばしよっとや。はよせんか。』と言葉も変わっていましたよ。」・・・まだまだ真弓氏は九州人だ。
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